01.ためらいがちな


「そんな御無体な〜」
情けない声が聞こえてきた方向に顔を向ければ、医療室からブルックが飛び出してくるのが見えた。
その姿をよく見れば、胸元を飾るリボンは半ば解かれた上に、はだけた黒のジャケットに右肩の骨が露わになっていて、まるで手篭めにされかけた娘のような有様だった。
「どしたの?」
尋ねたナミの姿を目にとめるやいなや、ブルックは、わたわたと駆け寄ってくる。
「実は、チョッパーさんが―」
ブルックがそこまで口にしたところで、後を追うようにチョッパーが飛び出してくる。
「もうちょっとだけ、調べさせてくれよー!」
そんなことを言いながら近づいてくるチョッパーに、ブルックは、ヒィと短い悲鳴を上げ、ナミの背に隠れた。
「な! な? もう解剖させてくれとは言わねぇからさ」
「……成程ね」
状況を理解したナミが、両手を腰に当て、溜息交じりに肩を竦める。
自分の背中で、文字通りガタガタと震えているのは、一度死んで蘇った男だ。しかも、骸骨と言う信じがたい姿で。 空の眼窩で物を見、舌もないのに料理を味わい、あまつさえ排泄までするというのだから、医者としては格好の調査対象だろう。
「チョッパー?」
その手先で鈍く光るメスに向けた眼差しを少し険しくすれば、チョッパーは、はっとして右手をその背に隠した。
「研究熱心なのもほどほどにしときなさいよ?」
ナミがにっこりと微笑めば、そこに嵐の前の静けさを感じとったチョッパーは、そっと後退を始めた。

「いやいや、助かりました」
やれやれといった様子で、大きく息を吐いたブルックを見上げ、ナミがくすりと笑う。
「まァ、確かに不思議だもんね、アンタの身体」
ナミの言葉に、ブルックは微かな笑い声を吐く息に忍ばせた。
「私も時々分からなくなります……今、この身に伝わる感覚が本物なのかどうか」
「どういうこと?」
そうですね、とブルックは遠く海の向こう、かつての仲間の眠る方へと目を向けた。
「例えば、身体の一部を失ったとして、けれど、失った筈のその部分に痛みを覚えたりすることがあるそうで。今の私は、それと同じように、かつての肉体の記憶をただ思い出しているだけなのかもなんて……」
抑揚に乏しい低い声でそう話したところで、ブルックは、我に返ったように、ナミの前で、この場の空気を変えるべく両手を広げた。
「いや、そんな深刻な話じゃないんですけど…ヨホホ!」
ふぅん、と鼻を鳴らしたナミが、やおら、手を伸ばし、目の前のブルックの指に触れた。
「なっ!?」
大きく口を開けたブルックを見上げ、ナミはにこりと笑う。
「どんな感じ?」
「え…えぇと、……あったかい、ですね」
戸惑った声音で答えたブルックの指を、ナミは、ぎゅ、と握りしめる。
「感じ方なんて、その時々で違うもの。今そう感じるなら、それでいいじゃない」
優しい旋律を奏でる白い骨。触れた時はひんやりと感じたそこに、ナミの熱が移っていく。
「アンタの手だって、今はもうあったかいわよ?」
小首を傾げて見上げてくるナミの、その言葉に、ブルックは声を失ったまま、柔らかな瞳を見つめ続けた。
骨ばかりのこの身体に、それでも魂は宿っているのだと、そうブルックに思わせてくれた言葉に、何もない筈の胸が温かな思いで満ちて、涙が出そうなほどに震えた。
「ヨ…ヨホ……ヨホホホ!」
暫しの沈黙の後、突然笑いだしたブルックに、ナミは怪訝そうな表情を見せた。
「いやいやいやいや……こんなに若くて美しいお嬢さんに手を握られたのなんて、何十年振りか!? 私、ドキドキし過ぎて心臓が口から飛び出そうです……って、私には心臓ないんですけどー!」
いつもよりずっと早口で、一息にそう言い切ったブルックを見て、ナミはその心の内を悟ったかのように殊更に悪戯な笑みを作ってみせる。
「じゃ、もう一押し」
そう言って、ナミはブルックを見上げたまま、つい、と爪先立ち、そうしてその目を瞑る。
「えっ!? えっ!? えぇっーっ!!?」
口づけをねだられているのだと理解した直後、頓狂な声を上げたブルックを、薄く目を開けたナミが可愛らしく睨んだ。
「何よ。女に恥かかせるつもり?」
「いや…その…そんなつもりは………えぇ、と……」
日々、挨拶のようにパンツを見せろと口にする男とは思えないうろたえ振りに、ナミがクスクスとその肩を震わせる。
「で、では、お言葉に甘えて……」
そう言いながら、ブルックはナミに顔を寄せ、暫しの逡巡の後、握られたままの指先を、その手ごとぎこちなく持ち上げた。
その時、ふとブルックは出会った直後のことを思い出した。こんな姿の私に、蹴りという形ではあるが、最初に触れてくれたのはこの人だった、と、ブルックは空っぽの瞳を柔らかくして、その甲に恭しく口づけを落とした。