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不自然な格好で止まっていた砂時計。
それが、今、再び正しく時を刻み始めたのだ。










蒼の記憶












「思い出したのね?」
「・・・・うん」

小さく息を吐くと、サンジの胸の中でヒナは囁き声で問う。

「行くのね?」
「・・・・・・・ん」

初めから答えの分かっていた問いを。

けれど、その言葉とは裏腹に、サンジはヒナを抱く腕に一層力を入れた。
背に回された手が、そして頭上の空気が震えていることにヒナは気づいた。

「泣いてるの?」

返事がない。
代わりに鼻をすすり上げる音が聞こえ、思わずヒナは口元に笑みを浮かべた。

「どうして?」
「アナタと離れるのが辛くて」
クスクスと笑い声が零れた。
「あんまり可愛いことを言うと離さないわよ」
「・・・・・うん」

離れがたい思い。離しがたい身体。
二人は抱き合ったまま、風に身を任せていた。


やがて、ポツリとサンジが口を開いた。
「ヒナさんは? 寂しい?」
そうね、とヒナは目を閉じた。血と埃と煙草の匂い。そして温かな鼓動を間近に感じた。
間もなく失われてしまう、その全てを――

「愛してるわ」

涙で濡れた目を見張り、そしてサンジは優しく微笑んだ。
「吃驚した・・・・・嘘みてぇ」
「嘘かもしれないわよ?」
「・・・・そういや、アナタ、自分のこと嘘つきって言ってたもんな」

そうよ、とヒナは静かに笑った。けれど、それが虚勢であることはよく分かっていた。
吐息のような笑い声は静かに震えた。

「けど――」
サンジはヒナの負担にならぬよう、ゆっくりと身体を離した。
「泣いてる。アナタも」
「私が――?」
驚いた顔でヒナは目元に指先をあてた。確かにそこには流れる涙があった。
「・・・・脚が痛いのよ」
「そっか」
ばつの悪そうなヒナの表情を受けて、サンジは物分りのいい笑顔を見せた。
指先でヒナの涙を拭おうとしたものの、サンジはふとその手を止める。
「ったく、あいつ等のお陰で身体中埃まみれだぜ、俺」
苦笑を浮かべてサンジはペロリと唇を舐める。
そうして、サンジは恭しくヒナの目元に唇を寄せた。

「泣かないで。レディーを泣かせるのは俺の流儀に反する」
「アナタは?」
「俺はいいの、男だから、泣いても」
おどけた口調と笑顔は、だが、次の瞬間固まり、そして崩れる。
抑えきれない思いに、サンジは切なげな表情を浮かべた。

「正直言うと・・・・・・俺、迷ったよ。
このまま、アナタの傍にいられるなら、思い出さなかったふりしちまおうかって」
「サンジ・・・・」
「・・・・だって・・・・・・俺は、アナタを――」
その続きをヒナは言わせなかった。
まだ上手く動かせない右手を伸ばし、ぎこちなくサンジの唇を押さえる。


その続きは言わせない。
そして、自分も決して口にはしない。
自分も、捨ててしまおうかと思ったこと。アナタを返さず、自分も全てを捨てて。
二人であの青い海へ。

起こり得ない未来は、何て甘く、何て美しい。
想いを馳せれば涙が溢れてしまうほどに。

だから何も言わない。言わせない。

ヒナはサンジの口元から、すっかり血が乾いてしまった頬へと手のひらを滑らせた。
現れた唇は何かもを承知しているかのように穏やかに微笑んでいた。
その唇がゆっくりと近づいてくるのをヒナは見ていた。

唇は、血の味がした。


ゆっくりとヒナは目を閉じる。
残っていた涙が溢れ、光る一筋の道を作った。




朝靄が晴れ、薄い雲のかかる青空に鳥達が囀りを始めた。

「右側のポケットに煙草があるの。取ってくれる?」
その言葉に、サンジはヒナのジャケットから見慣れたシガレットケースを取り出す。
「中に一本、色の違うのがあるの。それを頂戴」
見れば、確かに端に色の違うフィルタがあった。サンジが取り出した煙草をヒナは咥える。差し出された火にヒナは目で礼を言った。
火のついた煙草を、しかしヒナはすぐに放り出した。
地面に転がった煙草は、やがて大量の煙を空へと送り出す。それは煙草の形をした発炎筒だった。

空に昇っていく煙を目で追い、それからサンジは視線をヒナへと戻した。
「また・・・・会えるかな、俺達」
「そうね。アナタは海賊。私は海兵。互いに生きてこの海にいれば、いつかは」
「楽しみにしてるよ」
「馬鹿ね。海賊が海兵に会うのを楽しみにしてどうするのよ」
「綺麗な女海兵ならいつでも歓迎だよ、俺は。・・・・・けど」
鮮やかな笑みをヒナに向け、サンジはヒナの耳元で続きを囁いた。
「特別なのはアナタだけだ」

馬鹿、ともう一度口にし、ヒナは笑顔を見せた。

「もう、行きなさい」
「アナタは?」
「私なら平気。ホラ」
そう言って指差した方向には、合図の煙を見て飛んできたのだろう。こちらに向かってくる二人組の姿が見えた。

口々に何かを喚きながら、砂埃を巻き上げて突進してくるのは、フルボディとジャンゴ。
まだ大分距離があるので、何を言っているのかは分からないが、いずれサンジへの呪詛の言葉だろう。

「あー、アイツ等はもう会いたくねぇ方の海兵だな」
うんざりしたその物言いに、ヒナはくすくすと声を漏らす。その顔にもう涙はなかった。

「今日のお礼にいいことを教えてあげる」
ヒナはいつもの蠱惑的な目で、秘め事をするように唇に人差し指をあてた。
「アナタのお仲間、居所を変えてなければ西の入り江に隠れてるわよ。
この件を片付けて、明日にでも捕縛に出る予定だったの。間に合えば教えてあげなさい」
サンジは嬉しそうに頷く。
「やっぱ、アナタ最高にイイ女だよ」
そう言ってサンジはヒナに身体を近づけ、口づけた。
遠くから絶叫が聞こえてきたが、それには聞こえない振りをして。

唇を離すと、サンジは至近距離のまま、悪戯を思いついた子供のような笑みを見せて、さらりと言う。

「ありがと、ヒナさん。愛してる!」

やられた――
先程遮られた言葉を、彼は必ず伝えるつもりだったのだ。いつからタイミングを計っていたのだろう、この男は。

記憶なんかあってもなくても、本当に性質の悪い男だ。

「私もよ」
せいぜいの仕返しに、ヒナも極力何気ない風で返事をした。
暫し無言で顔を見合わせた二人は、一斉に吹き出した。

近づいてくる喧騒に顔を向けると、サンジは立ち上がる。足元に落ちたジャケットを拾い、乱暴に埃を落とした。
「そろそろ行きますか」
黙って頷くヒナに、サンジは笑いかける。
「ウルセェのも来たことだし」
やだなぁ、アイツ等の方に行くの、そう愚痴ると新しい煙草に火をつけ、サンジはトントンと靴の先で地面を叩いた。

「じゃあ!」
ちょっと買い物にでも出かけるような気軽さでサンジは言った。
ヒナは静かに微笑を返した。凪の海のような穏やかな笑みだけを。

そうしてサンジは駆けていく。真直ぐに。
自分だけの青い海を目指して。


何も言わない。
何も言わなくていい。
さよならは、どちらかの命が尽きるその時にでも。


それでも、もう一粒だけ涙を流すくらいは許されるだろう。
遠ざかっていく背中が、ヒナの視界の中で滲んだ。

やがて、サンジはこちらに向かってくる二人組と出くわした。
何事か喚いて掴みかかってきた二人に、サンジは遠慮なく蹴りを食らわした。

その様を見て、ヒナは目元を拭い、くすくすと肩を震わせる。

女にはキスを、男には蹴りを。
全くもって彼らしい。

一瞬で二人を地面に叩きつけると、サンジは走りながら手にしたジャケットを羽織る。
左腕を通して、それから袖の抜けた右手を通そうとして、その前に。

サンジは振り返らずに、その手を一度大きく振った。

白いその腕は、大きく羽ばたく一枚の翼。
片羽を私の中に残して。


いつか。
また、いつか、会いましょう。この海のどこかで。



蒼へと帰っていく愛しい翼。
その姿を深く焼きつけ、ヒナは静かに瞳を閉じた。



[ 終 ]