字書きさんに100のお題
ノックとは言いがたい乱暴な音で扉は叩かれた。
「入りなさい」
凛とした女の声の後、開いた扉の向こうに現れたのは黒衣の男。
黒のマント。
黒のスーツ。
黒のサングラス。
男は気負った表情一つ見せることなく、ずかずかと真正面に見える重量感に満ちたデスクを目指す。
海軍本部大佐・黒檻のヒナ、その部屋に呼ばれた者であれば皆デスクの前で足を止め、敬礼をする。
ところがその男は、重量感に満ちた机の脇を通り過ぎ、デスクの内側まで入り込む。
部屋の主は座ったまま、面白そうな顔で男のやりようを見ていた。
ヒナの隣まで来てようやく足を止めた男はそのままデスクの上に浅く腰をかけ、ヒナを見下ろす。
キィ、と僅かに椅子を軋ませ、ヒナは背もたれに深く身体を預けると男の視線を受け止める。
長い髪がさらりと肩の上を流れた。
注がれる不躾な視線にもヒナの表情は変わらない。
男の立ち居地など意にも介さず、デスクの端に置かれたファイルを手にし、朱に彩られた唇を開く。
「元クロネコ海賊団のジャンゴ、入隊希望と」
手元のファイルをパラパラとめくり、ヒナは顔を上げる。
見上げた先にある男の顔には審査を受ける者にありがちな緊張感など微塵も感じられない。
「近くで見ると益々別嬪だな、アンタ」
返事の代わりにジャンゴはまるで関係のない軽口を叩く。
「俺みたいな海賊上がりに随分な特別待遇、だな」
軍港で見つけた"あの美人"の所に行きたい、と口走ったら何がどう転んだか、突然呼び出しがかかったのだ。
「使えそうな人間なら使うわ。例えそれが何者であっても」
それに、とヒナは口元をほころばせる。
それは大輪のバラが目覚めたかのような鮮やかさだった。
「それ位の我侭を通せるだけの力は持っててよ」
ヒナの言葉に男は下卑た笑いを見せる。
「軍のお偉いさんでもたらしこんでるのかい?」
溜息を一つつくとヒナは再び微笑む。
「よかったわ、今ここに私の部下が居なくて」
真直ぐに見つめるジャンゴの視線の先で、女の笑みの質が変わっていく。
「もし居たら、今頃アナタ八つ裂きにされて下水にでも流されたでしょうから。そんな面倒にならなくてヒナ安心」
目の前のこのバラは棘を持っているだけではない、ジャンゴはそう感じた。
深紅の花弁は燃えさかる炎だ。迂闊に触れば手を焼かれるだろう。
―けれどたかが女一人―
「だったらそうなる前に―」
ジャンゴはずい、と身を乗り出すと同時に片手をヒナの頤へと伸ばす。
表情の消えた女の顔、その至近距離でジャンゴは囁いた。
「アンタを頂いて逃げるさ。忠実なる部下諸君が手を出せないようにな」
そうして密やかに笑うと、ジャンゴは付け加える。
「護衛の一人くらいつけとくべきだぜ、別嬪さん」
まるで引き金を引くようにヒナの顎に当てられた指先が動いた。
人形のように従順に上向く女の唇にジャンゴは己の唇を重ねた。
唇を奪われたまま、ヒナは身じろぎ一つしない。開けたままの瞳には拒絶も恐怖の色も見えない。
いぶかしむジャンゴの唇の下で朱の唇はゆっくりと笑みの形を作る。
―ヤバイ―
本能が危険を告げる。ジャンゴが身を離そうとしたその時、ヒナはジャンゴの首の後ろに手を回し、強く引き寄せた。
自然、深くなる口づけ。
笑んだままの唇の隙間から熱く、濡れた舌が這い出し、ジャンゴの下唇を舐め、更に奥へと入り込む。
甘い息遣いと送り込まれる舌は容易くジャンゴの舌を絡め取る。
そこでジャンゴは我を忘れた。
女の背に手を回し、きつく抱き寄せる。
危険を知らせる本能すら囚われ、ただその口づけに溺れた。
どの位の時間が経ったか。
やがてヒナの舌がジャンゴの唇から離れる。夢中でその後を追うジャンゴが身を乗り出した、その時だった。
ガシャン!
ジャンゴの首に回されたヒナの腕。
温かく柔らかな感触が、冷たく硬いものに変わったと感じたときには、その腕は自分の首を通り抜けもう目の前に現れていた。
目を剥く暇もなく、ジャンゴは自分の首に巻きついた枷の重さに勝てず、その場に倒れ伏す。
どう足掻いても頭を持ち上げることすらできない。
目の前には捕らえようとした女の足だけが見える。
暫くうつ伏せのまま床に這いつくばっていたジャンゴだったが、何とか体を反転させ、仰向けになることに成功する。
そうして見上げた視線の先には楽しげな女の顔。
「私に護衛が一人もいないのはね」
そう言ってヒナは一層華やかに笑った。
「その必要がないからよ」
返す言葉もなく、ジャンゴは溜息を零す。
それから自嘲気味に呟いた。
「全くザマぁねぇな」
無言のままじっとヒナを見つめていたジャンゴが真面目くさった顔で話し始める。
「俺が前にいたとこの船長もおっかなかったがアンタも大概恐ろしいな」
ジャンゴの言葉にくすくすと笑いながらヒナは返す。
「お望みなら極めつけに凶暴な男を紹介しましょうか?」
勘弁と言うようにジャンゴは両の手を上げる。
「後は煮るなり焼くなり好きにしな」
そのまま大の字に寝転んだジャンゴにヒナは静かに告げた。
「では、ジャンゴ。入隊を許可します」
「・・・・・は?」
思いもかけない言葉にジャンゴはサングラスの下で目を見張る。
「貴方なら敵に捕まっても一矢くらい報いてくるでしょう?」
意味深な笑みで見下ろされ、ジャンゴは溜息と共に目を閉じる。
前とはまるで正反対の場所に来たってのに、自分はどうしても恐ろしい奴の下につく運命らしい。
ジャンゴは苦笑を浮かべる。
「本当におっかない女だな、アンタ」
そう言って再び開けた目に映る女は変わらず美しかった。
「・・・けどイイ女だ」
ジャンゴは思う。
だったらこの場で見ていくのも悪くはない。
目の前の花がどこまで鮮やかに咲き誇るのかを。
少なくとも昇ることに飽いたあの男といるよりは面白いだろう。
「それはどうも」
ヒナは悪戯っぽい笑みを見せ、言葉を続ける。
「さっきのキスは入隊祝いということにしてあげるわ」
「イエス、サー」
生まれて初めての敬礼は寝転んだまま。
どこかくすぐったい気持ちで、ジャンゴは美しくも恐ろしい上官を見上げた。
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