あいうえお44題


  あ : あの日の夢を見た <サンジ> Date:  



海のど真ん中に、誰かが置き忘れたようにポツンと突き出た岩。そこに麦わらを被った少年の姿があった。
海面からさほど高さのないその足元を、波はザバザバと容赦なく打ちつけていく。その光景を遠くから見ていた。

あんのクソ馬鹿野郎。
泳げもしねェくせにあんなとこで何してやがる。

舌打ちしたい気分で睨むと、視線の先で麦わらの下にある顔が能天気に笑った。
ししししし。
聞こえないはずの笑い声が、不思議と耳元にはっきりと聞こえる。その声がその顔があんまり楽しげで、腹立たしく思う気持ちはあっさりと吹き飛んでしまった。

クソ馬鹿野郎が。
腹の底からじわりと湧き上がってくる笑いを噛み殺し、足を踏み出す。
岩の上では、少年がまるで踊るようにしぶく波を踏みつけている。
すぐにでも駆け寄りたい衝動にかられ、さりとて素直に思いのままの行動をとるのも癪に障る。殊更にゆっくりと足を向けた次の瞬間だった。

突然の波が少年の姿を飲み込む。
息が止まる。

思い切り駆け出したのと、ベッドの上に跳ね起きたのは、ほぼ同時だった。

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とある島の路地裏に小さなレストランがある。
オーナーシェフである男は、何でこんなしみったれた島に、と誰もが疑問に思うほど腕はよかった。だが、どこから聞きつけたか弟子入り志願の若造が来る度、早々に蹴り飛ばしてしまうので、結局はこの規模の店が丁度いいのかも知れなかった。
男には辛く、女にはメロメロに甘いその男は、ふと気づいた時には島に馴染んでいた。

「よくウチには煙草を買いにくるけどよぉ。そういや、昔の話なんて聞いたこたなかったよ」
レストランのはす向かいにある雑貨屋の親父はくしゃりと笑った。
「でもまぁ、悪い男じゃないさ。見てりゃ分かる」
「そっか」
黙って親父の話を聞いていた男は、立ち上がりしなに手元の棚から子供が買うようなキャンディーを引き抜き、小銭を置く。
「ありがとな」
そう言って立ち去ろうとした男の背に、親父が笑いながら声をかける。
「何するつもりかは知らんが、せいぜい蹴り飛ばされんように気をつけな!」
「おうよ」
振り返らずに応じると、男は手にしたキャンディーをひらひらと振った。





レトロな店構えとは裏腹に、最新式調理器具が並ぶ厨房。
その真ん中に置かれた丸椅子に腰を下ろしたサンジは、やや投げやり気味に足を放り出した。靴の踵が床にぶつかり、重たい音をたてる。
エプロンとシャツの隙間から煙草を一本取り出して火をつけると、サンジは思い切り深く煙を吸い込んだ。

全く何であんな夢を。
煙交じりの溜息を盛大に吐き出し、サンジはやだやだと首を振った。
どうせ見るなら、ナミさんの夢を見せてくれ。
青い海、白い砂浜、際どいビキニ。あぁ、夢でもいい。君に会いたい!

一人でにやけていたその顔から、やがて表情が消えた。

今更、あんなむさ苦しい夢を。今更。
誰に何を言われたわけでもない。自分で決めて船を降りた。
今にしてみれば呆れるくらいに泣けて、泣いて、それで終わりにした。
後悔しているのかと問われれば、おそらく「していない」と答える。けれど、未練があるのかと問われれば、きっと「ある」と答えるのだろう。
まだあんな夢を見るくらいだ。

夢の中の少年は、今はもう少年ではない。
けれど、不思議なことに夢に現れるルフィはいつも少年の姿をしている。
もしかしたら、自分にとってはあの頃が一番熱く生きていた時期だったのかもしれない。
思い出せばまた泣けてしまいそうなほど幸せな、夢。

「って、やめやめ! ジジイの述懐じゃねェんだ辛気くせェ!!」
気分を切り換えるようにサンジがそう一息に言い切った時、がたりと扉が鳴った。サンジが顔を上げる。
「あー、悪ィが、まだ店ァ、開けてねェ・・・・ぜ・・・?」
語尾を疑問の形で止めたまま、サンジは目を見開く。

嘘だろ?

何かの冗談のように片手にキャンディーを持った男が立っている。
腰を浮かせかけたところで足を滑らせ、サンジは思い切り椅子から転げ落ちた。

「腹減ってんだ。メシ食わせろよ」
つかつかとカウンターに歩み寄り、男は尻餅をついたまま固まったサンジの姿を見て、にやと笑う。その頭には古びた麦わら帽子が乗っていた。
「開店前だっつったろーが!」
忌々しげに吐き捨ててはみたものの、サンジの口元は自然と笑みの形を作った。

ほどなくして何品かの料理がルフィの前に並ぶ。開店前のレストランに食欲をそそる香りが立ち込めた。

「お前が居なくなってからも色々食ったけど」
相も変わらず品のない食べ方で、もごもごと動かした口の中を一気に片付けるとルフィは笑う。
「やっぱり、お前のメシが一番だったな」
カウンターの向こうで、サンジは口の端に咥えたままの煙草をついと持ち上げた。
「何だそりゃ。口説き文句みてェなこと言いやがって」
「口説いてんだよ」
そう言って笑みを納めると、ルフィはじっとサンジを見つめる。
サンジは、血が沸き立つのと同時に背筋を寒くなるのを感じた。
「冗談じゃねェ!!」
思わず後じさり、サンジは頭を振る。
「いいか、よく聞け! クソゴム!!」
「お、そんな風に呼ばれんのも久しぶりだなぁ」
サンジの剣幕をよそに、ルフィは暢気な台詞を吐く。
「今の俺にはな、この店があんだ。可愛いレディの常連も、美しいマダムの常連もいる。何が悲しくてまたてめェと一緒に行かなきゃなんねェんだよ!」
仄かな笑みを浮かべたままのルフィの顔面にサンジはビシリと指を突きつけた。
「分かったら、とっとと食って金置いて帰りやがれ!!」
「そりゃ無理だ」
あっけらかんと言い放ち、ルフィはからかうような瞳でサンジを見上げる。
「金がねェ」
「・・・・・・あぁ?」
唖然としたサンジの前で、ルフィは同じことを繰り返して言った。
「ねェんだよ。金が」
「んな訳ねェだろが」
サンジは目の前の若き王を睨みつける。富と名声、この世の全てを手に入れた男は、ひょいとキャンディーを上げてみせた。
「向かいでこいつ買ったらすっからかんだ」
だから、とルフィは邪気があるのかないのか判別しがたい笑顔を見せた。
「ここの払いは宝払いってことになるな」
「・・・・こんの、クソゴム・・・」
サンジは顔を顰め、床を見つめる。

踏み倒されたくなかったらついて来いってか。
臆病で天邪鬼で意固地な俺には、何か口実をやれば動くと思ってやがるんだろう。
よく分かっていやがる。伊達に長い付き合いじゃねェな。いや、コイツは最初からこんな調子だったか。

サンジは俯いたまま、くっと低く喉を鳴らして笑った。
キッチンの引出から短いチェーンのついた鍵を取り出す。指先にかけたチェーンをくるりと回し、鍵を手の中に納める。

向かいの親父にでも預けておくか。


全く、とサンジは呟く。
「どうりで夢見が最悪だった訳だ」

すぐにでも走り出したい気持ちを強引にねじ伏せ、サンジは不機嫌な笑みを作ってみせた。

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