*については裏書庫に続きがあります。
表書庫
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霜月転寝 |
Date: 2003-09-26 (Fri) |
―寒い―
そうだった、寒稽古の後だった。
冬の道場の板間は、氷で出来ているに等しい。
動くのを止めた途端、足の裏から熱は吸い取られ、あっという間に爪先まで酷くかじかんでくる。
よく先生はじっと立っていられるものだと思う。
真白く煙る息の向こうに師の姿を見た後、ゾロはそっと視線を脇に転じる。
それにくいなも。
平然とした顔で父である師の総括を聞いている。
その真直ぐな姿勢を見、ゾロは無意識に浮かせていた片足をしっかりと床につける。
床はやはり冷たく、痛いくらいだった。
それがやけに口惜しい。
もう少し年を重ねれば自分も平気になるのだろうか。
もう少し、例えばくいなの年にでもなれば我慢がきくようになるのだろうか。
それでも、自分がくいなの年になる頃には、きっとくいなはまた別な自分のできないことを容易くやってのけるのだろう。
たった数年の溝が飛び越えられない断崖のように感じられる。
それが我慢ならない。
焦る心は苛立ちを生み、苛立ちは自然、口調を荒げさせる。
「くいなぁっ! 外に出ろ今日の勝負だっっ!!」
―寒い―
そうだった、くいなとの勝負の後だった。
今日で何敗目だ? たしか―
上段へ叩き込んだ切先を、僅かに体をずらしたくいなに払われた。
竹刀は冷えた空気を切り裂き飛んでいく。
眉間間際で揺れる勝者の竹刀を、ゾロは荒い息をつきながら掴み、振り払った。
ゾロは黙然とその場に寝転ぶ。
―畜生畜生畜生―
かたく目を瞑ると頭の上から遠ざかっていく足音。
まだ弾む息を押し込め、ゾロは唇を噛み締める。
聞こえるのは、乾いた風が枯草を揺する音と自分の心音だけだ。
―畜生―
口惜しさと共に溜め込んだ息を全て吐き出す。
その息は暫しゾロの上の空を白く煙らせ、それから消えた。
目を閉じたままどれ位そうしていただろう。
もしかしたら眠ってしまっていたのかも知れない。
ごつんと竹刀で頭を叩かれ、ゾロは目を開けた。
そこには自分を見下ろすくいながいる。
全然帰ってこないと思ったら―くいなは呆れたように笑っている。
ゾロはどこででも寝ちゃうんだから、と。
そう言ってくいなは身を屈める。
そこで何かに気づいたくいなは声をあげて笑うと、短い緑色の髪をはたくようにしながら話す。
ほら、こんなところで寝てるから ――――――
―寒い―
どこだ?
ここは―?
「ゾロ!」
そっと頬に触れた指先はとても温かかった。
それでゾロは自分の身体が随分と冷えてしまっていたことに気づいた。
「いくらあんたでも風邪ひくわよ、こんなとこで寝ちゃあ」
かけられた声音も温かい。
「あ?」
寝ぼけた両眼が何とか焦点を合わせると、目の前には女の姿があった。
古くはあるが仕立のよい黒のコートをはおり、オレンジの髪も鮮やかに微笑む女。
咄嗟に名前が出てこない。大事な女だとは言うことだけは分かっていたが。
思考がまとまらない。
ゾロは手のひらで自分の顔を何度か撫ぜる。
目に映るその手は大きな大人の手で、理由も分からないまま妙な違和感を覚えた。
そうだ。
トナカイを伴って冬島を抜けて、久方ぶりの宴会でしこたま飲んでそれから―
夢だ―
何か夢を見ていたことは覚えているのに。
呆然としているうちにナミはするりとゾロの懐に入り込む。
「『あ?』じゃないわよ、まさかあんた風邪でもひいて『今まで面倒看てやった分看病し返せ』なんて言うつもりじゃないでしょうね」
「言うかよ、てめぇじゃあるまいひ――」
ゆっくりと、だが確実にナミの拳はゾロの頬にあてられる。
そのままグリグリと拳を押しつけられてゾロは口を開くこともままならないでいる。
ナミはクスリと笑うと、手を開く。
もう一方の手もゾロの頬にあて、両手で包み込む。
冷えて固まっていた肌がじんわりと溶けていくのがゾロにも分かった。
「連中は?」
甲板には自分とナミしかいない。
ゾロは片手でナミを抱き寄せながら問うた。
騒乱と狂乱がごた混ぜになっていた宴会の後とは思えない程まわりには何もない。
うるさい程降り続けていたいた雪もいつの間にか止んでいる。
黒一色の空を見上げれば余計に寒々しさが増す。
「サンジ君が持ってった、ビビは私が何とかね」
楽しそうにナミは話す。
ゴム毬のように弾むルフィに鼻で引きずられるウソップ。
ぬいぐるみと化したチョッパーとカルー。
それから抱いていこうかと手を差し伸べるサンジをいつもの礼儀正しさはどこへやら、けらけらと一笑にふした酔いどれ姫のことを。
そんなこんなで何やかやしている内に小一時間ほど経ってしまったのだとナミは言う。
「・・・・で何で俺だけ残ってんだ?」
首を横に曲げ、ぱきぱきと筋を伸ばしながらゾロは尋ねる。
「馬鹿だから」
「あぁ!!?」
唸るような声と共に眉間の皺が深くなる。
「私が言ったんじゃないわよ、サンジ君よ」
ゾロのきつい視線を、ナミはひょいと肩を竦めやり過ごした。
「雪ん中を泳ぐような馬鹿のところには風邪も寄りつかないって」
楽しそうに話すナミとは対称的にゾロはギリリと宙を睨む。
「やだ、ゾロ」
苦々しい表情は、次の瞬間衝撃に揺れた。
ナミの放った何気ない一言で。
ナミは手を伸ばし、ゾロの頭を軽く撫ぜる。
「頭が霜柱みたいになっちゃってる。ばりばり」
固まった髪を梳くように左右に手を動かしながらナミは笑った。
―ほら、こんなところで寝てるから頭が霜柱よ―
さっきまで見ていた夢。
忘れ得ぬ声。
夢の記憶はゾロの中で急激に膨らみ、弾けた。
―あぁ、確かに昔同じことを言われたんだ―
「・・・・・・ゾロ?」
過去へと傾きかけた思いはナミに現在へと引き戻される。
「またボンヤリしてる」
そう言ってナミは探るような目でゾロの瞳を覗き込む。
「心ここに在らずっていった感じよね」
ゾロは黙ったままナミを見つめ返す。
「昔の女のことでも考えてた?」
微妙ではあるが、当たらずと言えども遠からず。全く女のカンとは恐ろしい。
ニヤニヤと見上げるナミをゾロは軽く小突く。
「うるせぇよ」
否定とも肯定ともとれぬゾロの言葉にナミは笑いをおさめ、意外そうな表情を見せる。
綺麗な曲線を描いていた唇が真一文字に結ばれる。
その瞳がふと不安定に揺れた。
「いつか―」
そこまで言ってナミは口を噤む。
逡巡する心を表すようにオレンジの髪は風に嬲られ揺れる。
一呼吸の空白の後、
「いつかそうして私のことも思い出してくれる?」
冗談めかした軽い口調の、だがしかし語尾だけが僅かに震えた。
死は余りにも無造作に其処此処にある。
この先女の行く海の道に。
この先自分の行く剣の道に。
実際、ナミは寸でのところでその道からひき帰してきたのだ。
今、この腕にある温みが消え失せる可能性。
通夜の最中、二人きりになった部屋で密かにくいなの手に触れた。
もう二度と動くことのないその手はどこまでも冷たく、冬の道場の床を思わせた。
それはこの女の身にも起こり得ることだ。
そんな想像をすることすらゾロには許せなかったが。
「要らねぇ心配すんじゃねぇよ」
多少の怒りの混ざった口調でゾロは言う。
饒舌でありたいなどと思ったことは一度もないが、こんな時気のきいた台詞一つ言えない自分が何となく腹立たしい。
「貸し残したまま死ぬタマかよ、てめぇが」
そうふっかけてみる。
ちゃちな挑発だとは分かっていたが、それでもナミがいつもの調子で突っかかってきたのでゾロは内心安堵した。
―ざまぁねぇよ―
女の反応に一喜一憂してしまっている自分に気づき、ゾロは内心歯噛みする。
これでは昔と大して変わっていない、と。
彼岸の女と此岸の女。
女であることを厭いながら戦った女と女であることをも武器に戦う女。
外見も性格も何もかも、いっそ正反対と言ってもいい二人。
共通点があるとすれば―
こいつらにはいいように振り回されっぱなしってことか。
俺が―
誰にも、何にも乱されることない強さを求める自分が、と癪ではある。
それでもこの世とあの世に一人くらいそんな女がいるのをよしとする自分もいる。
「どうしたの? 急に」
突然低く喉を鳴らして笑うゾロをナミは目を丸くして見上げる。
「何でもねぇよ」
真直な瞳に何とはなしの照れくささを覚え、ゾロはナミの頭を自分の胸に押しつけ、その視線を封じる。
―全く敵わねぇな―
吐く息の白さに紛れてゾロは苦笑する。
細めたその瞳の前をまた雪が通り過ぎていく。
見上げれば空は漆黒に舞う白で溢れ、まるで満天の星空のようだ。不思議と寒さは感じなかった。
終
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