晴れた夕暮方には頭上で微かな音がする。
キッチンにてサンジはエプロンをはずしつつ、天井を見上げる。
微かな音、その正体が靴音だということは、とうに気づいている。
それが誰のものかも。
それが何の為かも。
そして、誰の為なのかも。
咥え煙草のまま、突然サンジは身を翻す。
そのまま歩を進めること、1歩、2歩、3歩。
そんなサンジの歩みを追いかけるように、頭上の足音も移動する。
カツ、カツ、カツ。
果たして、足音はサンジの頭の真上で止まり、消えた。
「当ったりー」
嬉しくもなさそうな顔でボソリと呟くと、はずしたエプロンを椅子の上に投げる。
ひらりと宙を舞ったエプロンは一瞬だけ椅子の上に留まり、それから力なく床へとへたりこむ。
つまらなそうな顔で舌打ちを一つ残し、サンジはキッチンを後にした。
キッチン脇の階段を昇る。
半ばまでさしかかったところで、夕陽の発する刃にその目を刺され、サンジは思わず目を瞑る。
視線の先には、本物の刃が。
胡座をかいて甲板に座り込んでいる緑の髪をした男。
その手で清められている最中の刃。
それは今、夕陽を浴びて鮮やかに輝いている。
ゆっくりと段を上りきり、視線を横に転じる。
蜜柑の木の間に立つ人影。
右肩と頭をもたれさせながら。
静かな微笑を浮かべ、ナミは前を―ただ前だけを見つめている。
当然の如く、ナミはサンジに気づかない。
サンジの視線は沈黙したまま虚しくナミの前を通りすぎていった。
細い溜息を溢し、サンジは目線を切り替える。
夕陽に、同色の刃、更に同色の髪。
他愛もないその奇妙な符丁は益々サンジをブルーにさせる。
大きく息を吐いて、今度は気分を切り替える。
「今、この世で一番幸せな男は俺に違いありませんね」
サンジは大股でナミに近づく。
満面の笑みで、可能な限りの快活さを、出来得る限り装いながら。
「こうやってナミさんとお話できる時間を天から与えられたんだから―」
芝居がかったそれを聞いて、ナミは笑う。
先程の儚げなそれでいて優しい笑みではなく、いつもの小悪魔的な笑い。
「・・・・蜜柑の手入れですか?」
そうではないことは十二分に知りながら、軽い調子でサンジはナミに尋ねる。
「・・・・そんなようなもんね」
そう軽く受け流すナミを、追いつめたいと思ったのは何故だろう。
「・・・手袋も道具も持たずに・・・?」
隠秘も逃走も許さない、それは問いかけだった。
ビクリとサンジの方を見るナミを安心させるように、サンジは微笑んでみせてから口を開く。
「・・・いつも・・・見てるんですね、ヤツのこと―」
逃走を諦めたナミは、息を一つ吐いて強張った体から力を抜く。
「・・・私こそ、見られてたとは思わなかったわ」
「ホントですか!? この俺の熱い視線に気づかなかった?」
冗談めかしたその口調に、降参―といった感じでナミは笑う。
その笑みが消える頃サンジが、面白くなさげに呟く。
「・・・・・・見てて楽しいもんでもないでしょう?ヤツぁ」
「そんなことないわよ、馬鹿だから、あいつは...
本当に、信じられない位の・・・・・・」
暫しの沈黙の後、問わず語りにナミは話し出す。
「・・・・あいつね、魚人の所で再会した時両手両足縛られてたの―
それに、包帯ぐるぐる巻きで―」
サンジは思い出していた。
圧倒的な力でもってねじ伏せられた瀕死のゾロを。
「・・で、あいつ何したと思う?私の目の前で」
答えを望んでいた訳でもないナミは、一つ息をついて続けた。
「飛び込んだのよ、海に―」
初めて聞く話だ―驚いた顔のサンジにナミは少し困ったような複雑な表情を見せてから
前を向いて続ける。
「私ってほら、この間まで損得勘定でしか動かなかった訳じゃない?」
そこでナミは少し辛そうな顔をした。
そう、見えた。
サンジはそんなナミの横顔を黙って見つめている。
「まぁ、今もそう変わったもんじゃないんだけどね」
浮かび上がった過去を押し流すように、少しおどけた調子でナミはそう付け加えて笑った。
「けど・・・だけど、あの時、あいつが視界から消えた時、私、何も考えなかった」
目を伏せ、ゆっくりとナミは選ぶように言葉を紡ぐ。
「助けたらどうなるか、助けなかったらどうなるか・・・比べることもできなかった。
気がついたら海の中よ・・・自分でも驚いたわ、ホントに」
長い長い溜息の後。
「あいつが私の為に命をはってくれた・・・私にはその事実だけで十分・・・
もうね、あいつの邪魔にはなりたくないのよ・・・・・・
何か言ってしまったら、私があいつの枷になってしまうかも知れない・・・
そんなのはいや、死んでも御免だわ」
「枷、か・・・」
サンジはぼんやりとナミの言葉をなぞり、養い親のことを思った。
自分を何としてでも海へと出そうとした隻脚の料理人。
―ひょっとしたらあんたも、そう思ってたのか、自分が枷だと・・・
でもよぉ、俺はあんたのことは―
「・・・・自分の目には枷にしか見えないものが、相手にしてみたら支えだった、なんてこともあるんじゃないですかね」
「それって、サンジ君の経験則?」
「おっ、俺の過去に興味出てきました?」
馬鹿ねぇ、とナミは笑顔でサンジを軽く睨む。
「だからね、今はただ見ていたいの。あいつがどこまで行けるのか。傍で見ていられたら、それだけで・・・・だから―」
そこでナミは一旦口をつぐみ、俯く。
「だからね、ホレたハレた、っていうんじゃないのよ、きっと―」
自らに言い聞かせるようにそう言ってあげたナミの顔は凛として美しく、だからこそ余計にその裏に秘められた想いは痛々しかった。
夕陽が重たげにその身を海に浸し出す頃。
あぁ、でもとナミは元のように快活に笑う。
「サンジ君に喋ったら何だかスッキリした。懺悔でも聞いてもらった気分よ」
―そうやって、墓ん中まで隠し持ってくつもりですか?
密やかに、与えていることすら気づかせないように。
愛じゃないと...貴女はそうやって否定する....けど―
黙ったままナミの顔を見つめるサンジ。
―だけど、ナミさん、それって愛情としては至上のもんだと思いませんか?―
無意識の内に握り締めていた拳をゆるめると、サンジは何やらナミに耳打ちする。
小首を傾げるナミの姿がなくなると、サンジは突然大声を出す。
「ゾロ!、メシだ!!」
試すような気持ちを込めて不意にかけた言葉に、果たしてゾロは全く動じなかった。
背を向けたまま、あぁ、と低く返す。
―そりゃぁ、気づかねぇ筈ねぇだろうよ。まがりなりにも大剣豪を目指すってヤツがよぉ―
その様を見てサンジは、ふんと鼻を鳴らす。
"二度と負けねぇから !!"
涙ながらの剣士の絶叫が蘇る。
―そんなヤツが手足縛られたまま海に飛び込んだだと・・・・自殺も同然じゃねぇか、馬鹿が。
あんな啖呵きった後にんなことすんじゃねぇよ。そんだけ重いってことじゃねぇか。
お前にとって彼女が―
サンジはしかめっ面のまま、風に煽られる前髪を片手で押さえ付ける。
―やんなっちまうぜ、全くよぉ―
沈黙を守ろうとするナミの姿が。
全てを知りながら沈黙を続ける目の前の男が。
―だれけど...だからこそ...俺は―
「分かってんだろ! クソ野郎っ!! ちんたらしてると俺が食っちまうからなぁっ!!」
さぁ、どう出る―そんな気持ちで吐き出したその台詞に、打てば響く早さで答えが返ってくる。
「誰にもやるつもりはねェよ」
そう言って振り向いたゾロは不敵な笑みを浮かべている。
刀の切っ先をサンジに向けながら、真直ぐにサンジを見据える。
口元は笑っているが、今やその目は笑ってはいない。
刃よりも鋭い、斬り込まれるような視線を正面から受けとめるサンジ。
―馬鹿野郎が・・・そういう偉そうなことは彼女を自分のもんにしてからいいやがれ―
しかし、ゾロを睨みつけるサンジの瞳から、ふと険が消える。
―でも、感謝しろよ、俺ぁ降りてやるよ。勝ち目のねぇ博打はしねぇ主義だからな―
突然、視線から力が抜けたことを訝しむような表情のゾロ。
その顔を見て、サンジはニヤリとし、視線はゾロに固定したままで口を開く。
「前言撤回です。やっぱ、面白れェや。見てて厭きない気持ち、少し分かりますよ」
明らかにゾロに向けて言ったのではないサンジの口調。
それを聞いて不審気に細められたゾロの目が次の瞬間には、驚きに見開かれる。
サンジの後ろから、微かな、本当に控えめな足音と共にナミが現われる。
信じられないというような表情でお互いを見つめる二人。
互いの視線はいまだ沈黙したままではあったが、破られるのはもはや時間の問題だろう。
同じような顔をしている二人を見比べてサンジはクスリと笑いを溢す。
「ま、後はお好きに」
ゾロに背を向けると、サンジは固まったままのナミにウィンクを一つ。

Special Thanx illust 森アキラサマ
「あー、メシが残ってるとは期待すんなよ!!」
軽く上げた右手をひらひらさせながら、ダルそうに階段を降りていくサンジ。
―"上膳"に"据膳"・・・・・・の用意かよ―
そんなことを考えながら、サンジはひょいと肩をすくめる。
―根っからのコックだねぇ、俺ぁ―
そしてついさっきの自分の台詞を思いかえし、苦笑する。
―この世で一番幸せな男・・・・じゃぁねぇよな、どう見ても俺―
煙草を咥え、火をつけるとその煙はゆっくりと天に昇っていく。
―天から・・ねぇ....
言ってみりゃあ、天使か、俺は―
堪えきれずサンジは、くくく、と笑いながらキッチンの扉を開ける。
―随分マヌケな天使だけどなぁ―
外の静寂が嘘のように賑やかな室内。
腹へった、メシメシーと喚く船長と
「何ニヤニヤしてんだよ、お前、気ん持ち悪ぃなぁ」
戸口のサンジを見たウソップが思わず眉を顰める。
「うるせぇよ、長っ鼻! てめぇ俺を誰だと思ってんだ!!」
「・・・・・・誰って、サンジだろ・・・・」
当然と言えば当然の答えを出すウソップにサンジはニヤリと一言。
「天使だよ、天使!!」
ポカンと口を開くウソップを尻目にスタスタとサンジはシンクへ向かう。
―今頃あの野郎、よろしくやってやがんのかな―
ちらりとそんなことを考え、海の天使は少し、ほんの少しその身を嘆いた。
終
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