■蒼の記憶
1.
船上は怒号と煙の坩堝と化していた。
絶えることのない砲声は聞くも者の腹を内蔵もろとも震わせる。現在GM号を追う海軍船は二隻。
その内の一隻は既にGM号に横付けされ、船長以下戦闘要員が応戦している。
もう一隻も間もなく追いつこうとしているところで、こちらは後甲板のウソップが砲撃でもってこれ以上近づけまいと頑張っている。
両側につけられたらクソ面倒だな―
後甲板に駆け上がったサンジは、乗り込んできた海兵を船外に蹴り飛ばしながら近づいて来る敵船に目をやる。
と、風を切り裂く音と共にウソップの撃ち込んだ砲弾が追いすがる敵船のメインマストに命中する。
メリメリと悲鳴をあげながらマストは中程で折れ、傾いた先端部分は周囲のロープに絡まり、辛うじて倒壊は免れることとなった。
「相変わらず狙い"だけ"はいいな」
「"だけ"がよけいだっつうの!!」
憮然とするウソップを尻目にサンジは低く笑うと、ひらりと船壁に飛び乗る。
「もう一押しして戦意喪失させてくらぁ」
「深追いするんじゃねぇぞ」
そう声をかけた時には、そこには既にサンジの姿はなかった。
ったく、この乱闘好きが―
胸の内で溜息をついてウソップは、はたと気づく。
今、敵に襲われたらどうすんだ、俺!!―
青ざめても既に後の祭である。
まるで重さを感じさせない動きでサンジは敵陣へと折り立つ。
突然降って湧いた黒服の男に、揃ってぎょっとしたのも束の間、海兵達は一斉にサンジへと踊りかかる。
斬りつてくるサーベルを反転してかわし、床に両手をつくと目にも止まらぬ速さで両脚を回転させる。
回りながら蹴りつけてくる両脚は旋風さながらで、あっという間に敵をなぎ払っていく。
身動きする敵がいなくなったところでサンジはストンと両脚を下ろす。
両手をはたきながら身を起こしたその時、背後で撃鉄を起こす音が聞こえた。
身を翻したサンジの目に、半壊したマスト根元から自分に狙いを定める海兵の姿が映る。
やべぇ!―
とっさに身を伏せるサンジ。海兵の指が引き金をしぼろうとした瞬間、
爆音と共に前方の景色が弾け飛んだ。
目元をかばった腕を下ろせば、自分を狙っていた海兵は悲鳴をあげながらすっ飛び、まさに海へと落ちるところだった。
あんにゃろう―
苦笑を浮かべながらサンジは立ち上がる。
「全くいい腕してやがる」
ぱらぱらと降り続く細かな塵を除けば他に動くものはない。
半死半生だったマストの周りはもはや瀕死の有様だ。
サンジは服についた埃を払いながらあたりを見回す。どこかにまだ動けるものがいたとしても、船はこれ以上は進めまい。追撃の可能性はもはやゼロだ。
さて、戻るか―
埃を払う手を止め、顔をあげる。
その時、視界の隅で瓦礫が音をたてて崩れていく。新たに立ち昇った煙の向こうに人影を見とめ、サンジはとっさに身構える。
だが、人影はその場から動くことはなかった。否、動くことができないでいた。
体の緊張を幾分抜き、それでも慎重にサンジはその影の元へと近づく。
見れば、いかつい顔をしたその海兵は崩れてきた瓦礫に足を挟まれ、身動きがとれなくなっていた。
近づいて来るサンジに気づき、その男は動けないままサンジを睨みつける。
「貴様のような若造にやられてたまるか!!」
男は動けぬまま、床に落ちていたガラス片に手を伸ばすと、それを握り締め胸元で構える。
切れた手のひらから血が滴り落ちる。それにも構わず男は強い瞳でサンジを射た。
ゆっくりと近づいて行くサンジは無表情のままで、何を考えているのか全く読めない。
男の傍で立ち止まったサンジは無言のまま男を見下ろす。
「息子が俺の帰りを待ってるんだ!!」
叫びながら男はガラス片を持った腕をサンジに向けて突き出す。
サンジは難なくそれをかわすと、男の手を蹴り上げる。男の手から放たれたガラス片は船壁にぶつかり、砕け散った。
「ぐっ、う・・・」
蹴られた手首をもう一方の手で押さえ、男はうめく。伏した顔を再びあげた時には、その瞳には覚悟の色が湛えられていた。
「殺せ」
豪然とそう言い放つ男を、サンジは静かに見下ろす。
「・・・・じゃあ、遠慮なく」
そう言ってサンジは蹴りの体勢に入る。静かに目を閉じた眼前の男に向けてサンジは渾身の力を込めて蹴り込んだ。
グワァン!!!
大音響と共に吹き飛んだのは男ではなく、男の足を挟んでいた瓦礫の方だった。
信じられないといった風で自分を見つめる男に、サンジはニヤリと笑って見せる。
「ガキ泣かすんじゃねぇよ、早く行きな!」
男の見開いた目は、サンジの意図を汲み取り、驚きから謝意へと変わった。
何とか立ち上がった男はサンジに一礼すると、足を引きずりながら後ろへと下がる。
その姿が誰かと重なったのだろうか。サンジの瞳に僅かに懐かしさが浮かんだ。
お人よしにも程があるな―
肩を竦めたサンジが後ろへ半歩踏み出したその時、頭上で均衡が崩れた。
傾いたマストの先端をギリギリのところで支えていたロープが、その重さに耐えかねて次々と千切れていく。
それまで表面の皮一枚で繋がっていたマストはまるでスローモーションのように完全に崩落していく。
その落下点にいるのは、満足に足を動かすことのできないあの男だった。
「ちっ!!」
舌打ちと身体を翻したのは同時だった。
男は逃げることもできず、頭をかばい、立ちつくしていた。
その背を突き飛ばしたところで、サンジは衝撃に倒れた。
落下したマストは容赦なくサンジの後頭部から背を打ちつけた。
完全に潰されなかったのは先程サンジが蹴り飛ばした瓦礫にマストの先端が乗り上げたからだった。
マストと床の僅かな隙間にサンジはうつ伏せに倒れ伏している。
後頭部から流れた血がみる間に床を赤く染めていく。
「サンジー! 大丈夫か? サンジーっ!!?」
突然の変事に慌てたようにサンジを呼ぶ声が聞こえる。半ば手放した意識の中、サンジはその声を聞いていた。
ったく、とことん甘ぇな、俺ぁ―
サンジは内心で自嘲気味に呟く。
けどやっぱり見捨てらんねぇわ―
虚ろに開いた目に血が流れこみ、サンジの視界を朱に変えていく。
血の海みてぇだな―
GM号からはひっきりなしにサンジを呼ぶ声が聞こえてくる。
どこか遠くから聞こえてくるようなその声にクルーの顔が重なる。
一人、一人現れては目の前に広がる血の海に音もなく沈んでいく。今まで会った誰も彼もが行き過ぎ、消えていく。
これが走馬灯ってやつかよ―
ぼんやりとそんなことを考えている内に、真赤だった視界の四隅に闇が生まれる。
最初は点であった闇は線となり、次第にその面積を増していく。
皆が消えた血の海、それ自体が闇に圧迫されどんどんと小さくなっていく。
やめろ―
サンジの口が僅かに動く。
そこに皆いるんだ・・・消すんじゃねぇよ―
全てが闇に飲み込まれる直前、サンジの目に映ったのは、足を引きずりながら近づいて来る男の姿。
あぁ、アンタが無事ならそれていいや―
混濁する意識の中で、サンジは小さく微笑み、目を閉じる。
なぁ、クソジジイ―
そして全てが闇に消えた――――
「随分派手にやられたわね。海賊一人に二隻が引き換え?」
損害を記した報告書を捲る上官の表情は険しい。人的な被害が負傷者だけで済んだのは奇跡的だったが、二隻の船は完膚なきまでに叩き潰されていた。
「その海賊は?」
「まだ意識は戻ってないようで、医務室に収容しております」
部下の返答にそう、と短く応じ、歩き出した上官の前に松葉杖をついた海兵がよろよろと進み出る。
それは、サンジに命を救われたあの男だった。
「何?」
睨みつける上官の視線に怯むことなく海兵はぎこちなく敬礼し、名前と階級を口にした。
そしてその後にこう続けた。
「今回捕えた海賊の件ですが、寛大なるご処置を願います」
海兵は必死の形相で上官を追いながら事情を説明する。
上官は黙って部下の話を聞きながら、医務室の扉を開ける。
医務室に入ると、年老いた軍医が困ったような顔で近づいて来る。
衝立の向こうに動く人影が見えた。捕えられた海賊はどうやら意識を取り戻したようだった。
「派手に怪我はしとりますが命に別状はないですな」
「話せる?」
老軍医の後に続き、上官は進む。動かされた衝立の向こうに男の姿が見えた。
壁に寄せられた簡素なベッド。その上でサンジは身を隠すようにシーツを被り、屈んでいた。
頭に巻かれた包帯、そして、前で合わせたシーツ、その隙間から覗く裸の胸に巻かれた包帯が痛々しい。
そんなサンジを目にした瞬間、上官の足がピタリと止まる。
端正なその顔に驚きの表情が浮かぶ。
「どうしました? ヒナ嬢」
サンジはヒナから目を逸らさない。ギラギラとした眼差しで睨むように見上げている。
それはまるで全身で威嚇をする野生動物のようで。
かつて見せたあの人好きのする笑みも、時折見せる怜悧な表情もそこにはなかった。
この違和感は一体何なのか。
「私が直接話を聞くわ、皆、外に出なさい」
驚愕を飲み込み、ヒナは淡々とした表情を作る。
「嬢・・・しかし、この男は―――」
何事か伝えようと口を開いた老軍医の言葉を片手で遮り、ヒナは全員を退室させる。
扉が完全に閉まるのを見届け、ヒナは改めてサンジに向き直る。
「久しぶりね」
そう声をかければ、サンジの纏っているピリピリとした空気が若干薄れた。
僅かに首を傾けたサンジの頬にヒナは手を伸ばす。
「どうしたっていうの? サン――――っ!!?」
伸ばされた手をサンジはピシリと払いのけ、じっとヒナを見つめる。
沈黙が場を支配する。
ヒナもまた黙ったままサンジを見下ろした。
やがてサンジは僅かに瞳を眇め、そうして初めて口を開いた。
「・・・・アンタ、誰だ?」
目を見張るヒナのサンジは項垂れ、額に手をあてる。暫く何事かを考えた後、首を振り、口もきけないでいるヒナを再び見上げ、更に衝撃的な一言を口にした。
「・・・・・いや、それよりも・・・俺は、誰だ?」
警戒をとかぬまま不安の色を滲ませる。複雑な瞳で自分を見つめ続ける青年にヒナは頬をほころばせる。
「そんなこと言って上手いこと逃げようって腹?」
暫く微笑を湛えたままサンジの表情をうかがっていたヒナだったが、一向に変わらぬサンジの表情に、みるみる内にその微笑は萎れていった。
ふうと大きな溜息を溢しヒナは呟く。
「・・・・本当に分からないのね」
ヒナはそれから口をつぐみ、つかつかと軍医のデスクの元へ足を運ぶ。
デスク傍の棚からアルミの受け皿を出し、飾り気のない円形の椅子の上に置くと、椅子ごとサンジの座るベッドの方に移動させた。
椅子の足についているローラーが床を鳴らす。
サンジは黙ったまま回るローラーを眺めていた。
サンジの前で椅子を止めるとヒナは受け皿をベッドの上へと軽く投げ置き、椅子に腰を下ろす。
下を見続けていたサンジの視線がヒナへと向けられた。
細い指がポケットを探り、煙草とライターを取り出す。
優雅な仕草で煙草を咥え、火をつける。
不安定に揺れながら昇って行く細い紫煙。ふとそれを見上げたサンジの瞳も同じように揺れている。
暫く中空を彷徨っていた視線がひたとヒナの顔に向けられる。
その視線にヒナはどうしたのか問うように小首を傾げる。
サンジは軽く頭を振り、目深に被っていたシーツを滑り落とす。
シーツの下から眩しいほどの金髪が現れる。さらりと流れるその髪に触れてみたい衝動にヒナは駆られた。
「・・・・一本もらっていいか?」
躊躇いがちに口を開いたサンジにヒナはおや、と思った。何気なくフィルタとは逆を向け、ヒナは一本を差し出す。
おずおずとヒナの指から煙草を抜き取ったサンジは、両の先端をちらりと見、フィルタの方を口に含む。
それはきわめて自然な動作だった。
全てがまっさらになった訳ではない―
会話をかわせることも、自分の周囲にあるものが何かも理解している。
見たところ日常生活には今のところ特に支障はないように思える。まだそう結論づける訳にはいかないが。
そんなことを思いながらヒナは手に持ったライターに火をつけ、サンジに差し出す。
しかし、サンジはビクリと身体を震わせ、嫌がるように上体をそらした。
「・・・いい、自分でやる」
そう言って鋭い視線を走らせるサンジにヒナは困ったように微笑み、ライターを投げる。
放られたライターは弧を描いてサンジの手の中におさまる。
慣れた手つきで火をつけ、サンジは煙を肺一杯に吸い込む。埋められない何かを求めるように。
その後、俯き加減に大きく吐き出した煙は溜息にも似て。
「・・・・自分のことが一つ分かった」
そう言ってサンジは手元の煙草を見、薄く笑う。
「昔から煙草を吸ってたってことだな」
そんなサンジの言葉にふと笑みを零すと、ヒナは再びポケットに手を入れる。
自分の煙草のケースを枕元に置くと、ヒナは更に目を細める。
「本当はここ禁煙なんだけど」
立ち上がりながら言葉を続ける。
「色々聞きたいこともあるけど一先ず今はお休みなさい」
サンジはヒナを見上げる。金の髪の隙間から覗く瞳。それは今、警戒の色が勝っている。
「ここが安全な場所か信用できない」
「信用してもらっていいわ」
間を置かず答えたヒナは鮮やかに笑う。
瞬きも忘れたように見上げ続けたのは、驚きの所為だろうか、それとも単に見惚れてしまったのか。
その笑みは強張ったサンジの表情を和らげるのには充分だった。そしてそれに続く言葉も。
「ここのトップは私よ。安心なさい。アナタには誰にも手出しはさせないわ」
医務室の扉を閉めるとヒナは近くの壁に背を預け、胸の中で先程の言葉を繰り返す。
誰にも手出しはさせない・・・か―
思い返してヒナは苦笑を浮かべる。
どうやら思っている以上に自分はあの青年に執着しているらしかった。
全くもって、ヒナ吃驚―
細い指、たなびく煙。
裸の肩を滑る長い髪、白い胸元。
夢、というには余りにも断片に過ぎる光景。
目を覚ましたサンジはベッドの中で身を捩り、腹ばいになる。
胸の奥が鈍く痛み、顔を顰めながらぼんやりと壁に目をやる。
部屋の中は暗く、扉の隙間から廊下の明かりが細く射し込んでいた。
無意識のうちに枕元の煙草ケースに手を伸ばす。次に手にしたライターの石を短く鳴かせ、火を煙草の先へと移す。
随分なヘビースモーカーだな、俺ぁ―
サンジは煙草を咥えたまま僅かに唇の端を持ち上げた。
闇に目が慣れれば壁にかかった時計の文字盤が読み取れる。明け方だった。それを知ったところで身を起こす気にはならなかったが。
ただ昇っていく煙を眺めながらサンジは先程の夢の断片をかき集めてみる。
細い指、たなびく煙。
裸の肩を滑る長い髪、白い胸元。
手にしたピースは余りにも少な過ぎて組み上げる気にもならない。
ふう、とサンジは煙を吐き出す。
そう、この煙だ。薄闇に昇る煙はまるでささくれのように引っかかる。そしてあの長い髪と白い肌。
それはあの女に会った影響なのだろうか。妙に生々しい現実感が伴っているような気がした。
サンジは目を閉じ、そこから記憶を辿ろうと試みた。
そう試みた途端、思い出に通じる糸は脆くも解れていく。それは目の前で昇る煙のようだった。
確実に目の前にあるのに掴めども手に入れられない。
手にしていた筈の記憶の断片はみるまに形を失い、まるで液体のように滴り、澱みを作る。
元の色を亡くし、闇の色へと変わっていくその澱み。底の見えぬ淵のような。
そして、その淵をサンジが覗こうとした瞬間、
「ってぇ!!」
サンジは両手で頭を抱える。
思いきり壁にぶつかって弾き返されたような痛みが頭を突き抜けた。
金の髪が激しく揺れる。サンジは頭を抱えたまま低く呻いた。気持ちの悪い耳鳴りが止まらなかった。
ちっくしょう―
胸中で毒を吐けるようになるころには大して吸ってもいない煙草は、その三分の一程が灰に変わっていた。
腹を括るしかねぇな―
サンジは一番最初に見た女の表情を思い出す。
心底驚いたような表情。そこに偽りはないように思えた。ならば真実女は自分を知っているのだろう。
それも驚くような相手として。
サンジは鈍い光を放つ器に煙草を押しつける。
いずれにせよ他に行くべき場所も会うべき人も今の自分にはない。
過去に繋がる唯一の手がかりはあの女のみ。
ここに残って自分を取り戻す―
それが自分にとって吉と出るか凶と出るかは分からなかったが。
「詐病ではないようですな」
デスク越しの老軍医は白い顎鬚を扱きながらヒナに書類を渡した。
「そう」
短く応じただけでそれ以上はなにも問わずヒナは手にした書類に目を通す。
幾度の転属にも常に同行させているこの老軍医に対するヒナの信任は篤い。
祖父と言ってもいい程の年齢ではあるが、医師としても軍人としてもまだまだ現役であり、そのキャリアは他者の尊敬を受けるには十分過ぎるものであった。
とは言え、目付役を自認する彼の言動に耳が痛くなることもままあったが。
椅子に腰掛け、書類に目を落とすヒナの向こうのガラス窓に目を向け、老軍医は目を細めた。
そこから見える海は夕陽の照り返しで見事な朱に染まっている。
時たま紙を捲る音が響くだけの室内。
書類にはサンジについての診断書、並びに身体的な特徴から知的能力までが事細かに記載されている。
頭は悪くない。
と言うか記憶力に関しては、ずば抜けて良い。
自身についての記憶のみが欠落しているというのは何とも皮肉な話だった。
「この後はどうしたの?」
ヒナが指し示したその先の回答欄は全て未記入となっている。
「そこであの小僧がペンを放り出しましてな」
老軍医は顔を顰めながら続ける。
「頭が痛いなどと言っとりましたが、その後ケロリとして煙草を吸っておりましたから、単に検査に飽きただけだと思いますがな」
忌々しげな老軍医の物言いに、ヒナは再び書類に目を落とすと密かに口元に笑みを浮かべる。
身体能力については今現在は怪我を負っていることもあり、計測が見送られている。
しかし、ヒナにしてみれば今更調べるまでもない。
よく鍛えられた身体をしていた。それは自分の手のひらが覚えている。
最後の一枚を捲りあげ、ヒナは椅子の背もたれに深く身体を預け、老軍医の目を見る。
「回復の見込みは?」
「それは何とも言えませんな」
軍医はそう言って白髪の頭を幾度か振る。
「こうしている今、全てを思い出しているかも知れなせんな。或いは一生記憶の戻らぬまま―」
ヒナは手にした書類をデスクに置き、立ち上がる。
窓辺に足を向ければ眼下に広がるのは赤い海。その光景を見つめたままヒナは低く呟く。
「爆弾を抱えるようなものね」
その言葉でヒナがあの青年をとり込もうとしていることを老軍医は悟った。
「また面倒な男を・・・・・見てくれは嬢の好みだとは思っとりましたがな」
老軍医は苦笑を浮かべながらヒナの背に声をかける。
「ばれてたかしら?」
老軍医の言葉にくるりと身を翻すと、ヒナは悪戯を見つかった子供のような顔で笑んだ。
「この爺の目は欺けませぬよ」
そう言ってから何かを思い出したかのように老軍医は忍び笑いを零す。
「思い出しましたな。唯一読めなかったあの白りょ―おっとこれは失礼」
その名を出す前にキリリと睨みつけられ、老軍医は口を噤む。それでも笑っていられるのは付き合いの長さ故の余裕か年の功か。
ヒナは気を取りなおすようにコホンと一つ咳払いをすると老軍医に尋ねる。
「"彼"に会います。今、どこに?」
「小僧なら今も医務室に居りますよ」
そう言った途端、老軍医は渋い顔を見せる。
「おかげで部屋中がヤニ臭くて堪らんのです。・・・・・全くどこの誰が許可したのやら」
反撃とばかり恨みがましい目で見上げられ、ヒナはそっぽを向いて肩を竦めた。
扉を開ければ、とても医務室とは思えない匂いがした。
発煙源は部屋の奥、ベッドに腰かけ足組みをしながら不機嫌そうな表情を隠しもしない。
眉間に深く皺を寄せ、次々と新たな煙を生み出している。
近づけば噛みつかれそうな雰囲気とは裏腹にサンジの身につけているものはといえば、膝辺りまでしか長さのない薄っぺらな検査衣で、そのアンバランスな様子にヒナは思わず吹き出した。
「いい格好ね」
くすくすと笑いながら近づいて来たヒナをサンジはじとり、と見上げる。
「俺には手ェ出さねぇんじゃなかったのかよ!」
「口のきき方に少しは気をつけろ、小僧!」
ヒナに喰ってかかったサンジの頭を、同行してきた老軍医が叩く。
「いっでっ!!」
思わず悲鳴をあげたサンジは包帯に巻かれた頭を抱えて蹲る。
「怪我人に暴力ふるうんじゃねぇよ、ジジイっ!!」
そう言い放った直後、ほんの僅かの間、サンジの表情が途惑うように変化したのをヒナは見逃さなかった。
何事もなかったかのように老軍医と舌戦を繰り広げるサンジの前で、ヒナはパンと両手を鳴らし不毛な争いを終わらせた。
「別に痛い思いはさせなかったでしょう?」
見下ろすヒナからふい、と視線を外すとサンジは「今、痛ぇよ」と零す。
そのサンジの手にヒナは袋を一つ下ろす。
袋を手に何か問いたげなサンジに、ヒナは目線でその袋を開けるよう促す。
サンジの指が袋の口にかかる。
その瞬間、ヒナの身体に緊張が走る。
サンジの指が袋の口を広げていく。
その中にはサンジがいつも身につけていた黒のスーツが入っていた。
無言のままの真直な視線に、だがサンジは首を傾げた。
ヒナの瞳から強張りが消える。
「それはアナタがここに運び込まれてきた時に着ていた服よ」
静かにそう告げるヒナの言葉にサンジは力なく首を振った。
思い出さなかった―
「着替えたら私の部屋に来なさい」
揺れ動く内心を気取られぬよう淡々とした口調でヒナはそう告げる。
傍らで成り行きを見守っていた老軍医に後で案内するよう命じヒナはその場を後にした。
規則正しい歩調で自室へと戻りながら、ヒナは無意識のうちに溜息を零す。
それが安堵からくるものであることをヒナは否定できなかった。
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