■蒼の記憶

2.

自室に戻るとヒナはデスクの上に指を滑らせながら回り込み、椅子に腰を下ろす。
鈍く黒光りする皮張りの椅子。その高い背もたれにヒナの髪が流れた。
デスクに両肘をつき、それから両手を組むとそこにゆっくりと額を押し当てる。

さて、どうするか―

そんな思いを頭に浮かべてから、ふいにヒナは苦笑をひらめかせた。
どうするも何も自分の中ではとうに決まっていることではなかったか。
今更悩む振りをするなど馬鹿馬鹿しい以外の何者でもない。

コツ、コツ。

ノックの音がヒナの物思いを断ち、待ち人の来訪を告げた。
「入りなさい」
ヒナは手元から顔を上げると努めて事務的な口調で入室を許可する。

黒衣の青年と白衣の老人。開け放たれた扉の向こうには二人の男が立っている。
ヒナはサンジの入室を促す一方、共に入ろうとした老軍医の歩みを片手をあげて制止した。
老軍医が静かにその場から消える。扉が閉まるのを見届けるとヒナは口を開いた。
「具合は?」
ヒナの問いに、サンジは人差指でこめかみのあたりを叩きながら口元を歪ませる。
「ここ以外はまぁ、まとも」
「何か思い出したことは?」
サンジは表情を変えることなく、目だけで天井を仰いだ。
「きれいさっぱり、なぁんにも」
それから真直ぐにヒナを見据えると不敵な笑みを浮かべる。
「だから逃げなかったんだぜ。身体中あちこち弄りまわされても」

その眼差しからは何をされても退かない、そんないっそ青臭い程の気概が見てとれる。
そんなサンジの表情を見て、もしかしたら、とヒナは思う。
記憶をなくしたことで、今までこの男が見せてきた、どこかとらえどころのない飄々とした部分が薄らいでいるのかもしれない、と。
そして真直ぐに噛みついてくるような、そんな直情的な本質が剥き出しになっているのかもしれない、と。
それはそれで可愛いけれど―

「それは結構」
面白そうにそう言い放つと、ヒナはすっと腰を浮かせる。
キィ、と僅かに鳴いて椅子が後退する。
ぐるりとデスクを周り、サンジとデスクの間に立つと、ヒナはデスクの端に浅く腰をかけた。
「しばらく私の傍にいてもらうわ、ヒナ決定」
サンジは目を眇める。
「今度は牢にでもぶち込んでおくのか?」
剣呑なサンジの視線を、しかしヒナは笑い飛ばした。
「私の傍に、と言ったでしょう? 私が個人的に貴方を預かるわ」
「ボディガードにでもする気かよ?」
胡散臭げな表情を浮かべるサンジをからかうようにヒナは応える。
「どっちかと言うとペットとかの類かしら?」
「あ?」
目を剥くサンジにヒナは更に追い打ちをかける。
「なんて冗談はさて置き。時期を見て貴方を私の部下に引っ張るつもり」
そうしてヒナは優雅に笑う。
「これは本当。ヒナ本気」
「はぁ?」
ポカンと口を開いたまま呆然としているサンジ。
ヒナは軽やかに立ち上がると、すれ違いざま硬直したままのサンジの肩を軽く叩き、扉へと向かう。
壁にかけてあるコートを取り、身に纏う。
慌てて振り返るサンジの目に、バサリと音をたて広がるコートの裾が映った。
「お・・・・おい!?」
「帰るわよ」
思わず声を上ずらせるサンジにお構いなしで、ヒナはコートに袖を通すと振り向きもせず扉に手をかける。
「帰るってどこに?」
「私の家」
扉を開けながらこともなげにそう返すとヒナに、サンジはもはや二の句が告げない状態になっている。
すっかり固まってしまっているサンジの前からヒナの姿が消える。
遠ざかっていった足音を呆然とした面持ちで聞いていると、その足音が再び近づいてくる。
開け放たれた扉から上半身だけをのぞかせているヒナは眉間に皺を寄せている。
「何してるの? 早くついてらっしゃい」
「・・・いや、ちょっと――」
「文句も質問も後。私、もう疲れたの、ヒナ疲労」
そこで不機嫌そうな顔がふ、とゆるむ。
「また医務室の硬いベッドで寝たいんならそれでもいいけど?」
「待っ――!」
伸ばした腕もむなしく、ヒナは再び姿を消す。
ふらふらと廊下に出たサンジにヒナは真直ぐ進みながらビシリと声を走らせる。
「は・や・く!!」
「はいっ!!」
反射的に背筋を伸ばしてそう答えてから、サンジは自分のとった行動に首を捻る。
もしかして命令され慣れてんのか? 俺―

そうしている間にもヒナはどんどんと遠ざかっていく。
サンジは一つ肩を竦めると、小走りでその背中を追った。





「・・・て、裏じゃねぇかよ」
げんなりとした顔でサンジが呟いたのは、支部を出てから五分後のことだった。


ヒナの言う私の家―正確に言えばそれは官舎であった―は支部の建物のすぐ裏手にあった。
支部をぐるりと囲む高い塀。その裏に設けられた門から二人は外へ出た。
裏門を守る警備兵は、ヒナとその後ろをついて歩くサンジを目にし、一瞬怪訝そうな表情を見せたが、すぐにその顔を改めピシリと敬礼し、門扉を開いた。
裏門を出たところにも警備兵は配備されていたが、浮かべている表情は容易に想像できたので、敢えてサンジは振り返りはしなかった。


室内に入ると、ヒナはサンジにその辺に座っているよう言い残し、さっさとバスルームに姿を消した。
やがて微かに水音が聞こえ始める。
脱力感に負けそうになりながらも、サンジは部屋の周囲に目を配る。
支部のトップの家と言うからもっと大仰な作りを想像していたが、室内は意外な程簡素だった。
玄関から真直ぐに通されたここがリビング。玄関の程近くにぼんやりと明かりが浮かんでいる。そこが今、ヒナのいる浴室。
リビングとはカウンターで仕切られたキッチンが見え、左手に閉じられた状態のドアが二つ。
サンジはゆっくりと歩き出し、その内の一つに手をかける。
リビングの明かりを受けて部屋の手前だけが僅かに照らし出される。
いくつもの箱が重ねられただけで調度品の一つもないような部屋だった。
サンジは無表情のまま扉を閉めると、そこから数歩のところにある扉に手をかけた。
先程の部屋と同じように、室内はぼんやりと明るくなる。
薄闇の中にベッドが見えた。
サンジは惹かれるようにベッドへと近づき、その枕辺に手を伸ばす。
煙草の匂いの中に密やかに甘い香。

俺、知ってる―

サンジはじっと己の手先を見つめる。ほんの少し力を込めれば、ぼんやりと白い枕は指の形に窪んだ。


細い指、たなびく煙。
裸の肩を滑る長い髪、白い胸元。


サンジは目を見張る。心が妙に騒いだ。
支部の医務室で呼び起こされた断片が、より一層の生々しさをもってサンジの脳裏に浮かぶ。
サンジは枕から手を離し、その手を見つめた。
手触りすら感じさせる生々しさ。

知っている、筈なのに―

サンジはよろけるように壁に寄りかかり、天井を仰ぐ。
どう足掻いてもそれは記憶の断片に過ぎなかった。
息が苦しく、サンジは無意識のうちにネクタイをゆるめたその時だった。

「持ち主のいない寝室に興味があるの?」
開けたままの扉の向こうから声をかけられ、サンジは弾かれたように声の主へと目をやる。
光あたるそこでヒナは微笑んでいる。
濡れ髪をそのままにバスローブを纏うその姿に、また心が騒いだ。

ヒナは両手にビールの瓶を持って立っている。
無言のまま部屋から出てきたサンジにヒナはその内の一本を手渡す。
じんわりと汗をかきだした瓶を手にし、そこでサンジは自分の喉がカラカラに乾いていることに気づいた。

サンジに瓶を手渡すと、ヒナは自分の分を歩きながらあおり、リビングに置かれた大ぶりのソファに腰を下ろす。
背もたれにかけてあった黒のストッキングを摘み上げ、背後に放り投げる。
片手を背もたれに回し、両足をソファの上に乗せる。
立ったままビールをあおるサンジの目の前で、綺麗に揃えられた足がソファの上を滑っていく。
足元のローブがはだけ、形の良い脛が剥き出しになる。
傲然たる姿勢で、それでも優雅さを失わず、ヒナはビールを飲み下す。

「いつまで立ってるの? アナタ」
「・・・どこに座れっつんだよ」

三人は座れるであろうソファを一人占めしているヒナにサンジは憮然とした顔で応える。
それでもくすくすと笑うばかりで動こうとしないヒナに見切りをつけ、サンジは渋々といった風でヒナの前の床に胡座をかいた。

「随分、殺風景なんだな」
サンジが部屋の印象を率直に語ると、ヒナは頷く。
「転属になってまださほど経ってはいないから」
「軍の偉いさんの家なんてもっとキンキラしたもんかと思ってたけどな」
どこか気の抜けたようなサンジの物言いにヒナは笑う。
「そういうところも勿論あるわよ。私はどちらでも構わないけれど。軍人ですもの。海の上でだって戦場だって雨風さえ凌げればどこでも眠れるわ」
天蓋付きのベッドがよく似合いそうな女は、拘りもなくそう言った。

「何かおかしいか?」
尚も目を細めているヒナにサンジが問う。
「アナタがこんな風に傍にいるのが可笑しくて」
ヒナの意味深な笑みをサンジはじっと見つめる。
「俺は・・・確かにアンタに会ったことがあるんだな?」
それは疑問の形をした確認だった。
しかし、ヒナはその問いには答えず、ただ顔を顰める。
「・・・・いいこと? これから先、二度と私のコトを"アンタ"なんて呼ばないで」
ヒナの言葉に瞬きを二つして、サンジは口を開く。
「・・・じゃあ、大佐」
これには逆に呼ばれた方が驚いた表情を浮かべた。
呼んだ方は怪訝そうな顔でヒナを見る。
「大佐なんだろ? アンタ・・・・じゃなくて大佐」
我に返ったヒナはどこかくすぐったそうな顔で笑う
「アナタに"大佐"なんて呼ばれるなんて。ヒナ吃驚」
「他の呼び方がいいんならそうする」
その言葉にヒナは首を横に振る。濡れ髪の先から滴がポタリと落ちた。
「それでいいわ。何かちょっとゾクゾクするわね。ヒナ快感」
一人悦に入っているヒナを前に、サンジは状況を飲み込めぬまま首を傾げ、煙草に手を伸ばす。
肺に溜めた煙を吐き出し、気を取り直してサンジは再度質問を試みる。
「で、肝心の俺の名前は?」
「名前・・・そうね、名前がないのは不便よね」
真剣な眼差しで答えを待つサンジにヒナは同じく真剣な顔を見せて口を開く。
「ポチとかは?」
「・・・明らかに今つけたろ!?」
不機嫌そうに睨んでくるサンジに、ヒナは余裕の笑みを浮かべる。
「冗談よ。サンジ」
サラリとその名を呼んだヒナの顔にはもう笑みはなかった。
ヒナの視線はサンジを探る。どんなに些細な変化も見逃さぬように。

名を呼ばれた途端、サンジの表情が消える。
呼ばれた名を自分の内に深く沈めようとするかの如く、静かに目を閉じる。


サンジ。
暗闇に飲み込まれる前にそう呼ばれたような気がする。
それが誰だったか、その声を思い出そうとすればするほど声は遠ざかっていく。
代わりにザァザァと、潮騒にも似た音が脳裏に響く。
微かな声はやがて潮騒に飲まれ、同化した。


憑きものでも落ちたようにサンジの身体から力が抜ける。
ますます背を丸め、サンジは床を見つめ、俯く。
「テメェの名前呼ばれてもピンとこねぇとはな」
自嘲気味に笑い、サンジは顔をあげる。視線が合う直前、ヒナは密かにつめていた息を吐いた。

「後は? 何でもいい、知ってることがあったら教えてくれ!」
そう言って身を乗り出すサンジに、ヒナは静かに頭を振った。
「今日はここまでにしましょう」
「何で!?」
噛みつきそうなサンジに向かい、ヒナは言い含めるように話す。
「もう休んだ方がいいわ。名前一つでこんな顔をして―」
そう指摘され、サンジは自分が油汗を流していることに気づいた。
「構わねぇよ、これ位!」
苛立つ感情のままに、サンジは凄惨な笑みをヒナに向ける。
「言わねぇってんなら寝込みでも襲って無理やり吐かせてもいいんだぜ?」
危うい色に光るサンジの瞳。それを真正面から受け、だがヒナは口元を綻ばせる。
サンジの方へゆっくりと上半身を近づける。
ローブの合わせ目に豊かな胸の谷間が垣間見える。
思わずサンジが目をとられたその時、ヒナはサンジの胸元に手を伸ばす。
ネクタイの結び目を掴みあげ、至近距離で囁く。
「"寝込みを襲う"なんて初日から随分サービス精神旺盛だこと」
そう言ってヒナは更に顔を近づけ、妖艶な笑みを見せる。
挑発の瞳。
「何なら、今すぐ一緒に寝る?」

ヒナの囁きにサンジはギョッとした顔で、そして次の瞬間、盛大に顔を赤らめた。
ヒナがネクタイから手を離すと、サンジはそのままペタリと床に座りこむ。
真一文字に引き結んだ唇はやがてパクパクと動き出すが、ただ空気を漏らすだけで言葉が出ない。

そんなサンジの様子に、ヒナは思わず吹き出す。
ひとしきり笑い終えると、ヒナは残念そうな顔で一人ごちる。
「のってこないなんて、本当に記憶がないのね・・・・
けど、アナタのそんな顔が見れてちょっと得した気分ね。ヒナ満足」

そう言って、ヒナは立ち上がると寝室へ向かう。
再び現れたヒナは、呆然としたままのサンジの頭上に毛布を落とす。
「今日のところは一人寝で我慢するわ。じゃあね」
涼やかな声を残し、ヒナは消えた。

しん、と静まり返ったリビングでサンジはようやく毛布から顔を覗かせる。
恫喝したつもりが挑発されて、挙句一言もないとは。

つーか、記憶があったら乗っちまうのか?俺。今の話に―

片手に毛布を抱え、サンジはもう一方の手でぐしゃりと頭をかき回す。
「俺って一体どんな男よ」

半ば呆然としたまま、サンジはヒナのいる寝室へと目を向ける。
閉じられた扉の向こうで、恐らくは盛大に笑っているだろうヒナの顔が妙に鮮やかに浮かんだ。



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