■蒼の記憶
3.
翌朝寝室から出てきたヒナが目にしたのは、キッチンの中にいるサンジの姿だった。
咥えタバコでフライパンを返していたサンジは、人の気配に気づき顔を上げた。
「その辺勝手に漁らせてもらったぜ」
気だるげに髪をかき上げながらヒナはキッチンカウンターに近づくと、その下から椅子を引き出し腰かける。
まだ瞼の開ききらない無防備なその表情に、サンジは苦笑しながらコーヒーサーバーに手を伸ばす。
キッチンの中から手渡されたカップを両手でくるめば、立ち上る湯気は温かく肌をくすぐる。
ヒナはその香りを楽しむと、カップを傾ける。
僅かに酸味を帯びた苦味が口一杯に広がる。そしてその刺激は瞬時にヒナの意識を覚醒させた。
記憶をなくしてもコックは料理を忘れない、か―
どこから探してきたのか律儀にエプロンまでしめているその姿にヒナは感心しつつ、一つの疑問を抱いた。
では、サンジの中の海賊の部分は戦いを忘れていないのだろうか―
「ったく、ロクなモンがねぇな。ここんちには」
ぶつくさと悪態をつきながらもサンジは次々と皿を出してくる。家主が、どこにこんな材料があったかと不思議に思うくらいだった。
その様を見つめながらヒナは真面目くさった顔で話しかける。
「どうやら私、あなたのスカウト先を間違えたようね、ヒナ失敗」
何のことか、と怪訝そうな顔を見せるサンジにヒナは笑いかける。
「私の部下に、ではなくてハウスキーパーになってもらうべきだったかしら」
軽く曲げた人差し指を顎にあて、ヒナは考え込む素振りを見せる。やがて出した結論は、実にあっけらかんとしたものだった。
「まぁ、両方やってもらえばいいだけの話ね」
あっさりと言い放ち、ヒナはフォークに手を伸ばす。
サンジは無言のまま、やってられるか、とでも言いたげに肩を竦め、キッチンから出てると、ヒナの隣に椅子を出して座った。
「どうかして?」
視線を感じ、ヒナはフォークを動かす手を止めた。
「いや、旨そうに食うな、と思って」
そう言って見せた笑みは、今までに見せた笑みに比べると随分柔らかなものになっていた。
それが、料理人としての性に由来するものなのか、或いは多少なりとも気を許し始めた所為なのかは分からなかったが。
ええ、と一つ頷き、ヒナはサンジの瞳を見つめる。
「相変わらず美味しいわ」
ヒナのその言葉でサンジの顔から笑みが消えた。
「俺は・・・・前にも・・・」
「初めて会った時には"流しの料理人"だってアナタ私に言ってたわよ」
サンジは目の前に両手を広げ、まじまじと見つめた。
料理人―
目が覚めてまっすぐに向かったのはキッチンだった。気づけば当たり前のようにそこにいた。誰に言われたわけでもないのに手が勝手に包丁を探していた。
そして、それを手にした時のえも言われぬ安心感。
料理人―
自己を形作る何一つを持たぬ現状に与えられたその言葉に、今にも崩れそうだった足元がほんの僅かだが塗り固められたような気がした。
随分深く考え込んでいたのだろう。いつの間にか隣からヒナの姿が消えていたことにサンジは気づかなかった。
滑車がレールを滑るその音にサンジは振り向く。勢いよくカーテンが開けられ、陽光が部屋に射し込んできた。押し寄せる白い光にサンジは堪らず目を眇める。狭まった視界の中で、大きく伸びをするヒナの後姿が見えた。
「さて」
くるりと振り向いたヒナはサンジに向けて"何か"を放り投げた。
「おわっ、と!」
慌ててサンジが受け取ったのはエナメルの黒い財布だった。
「?」
意図が汲めずじっとその財布を見つめるサンジにヒナは笑いかける。
「そこを片付けたら買い物に行ってきて頂戴。ロクなものがない我が家の為に」
「何で俺が!?」
不満をあらわに噛みつくサンジに、ヒナはゆったりと笑顔を向けた。
「働かざるもの食うべからず」
「あー! くそ重てぇ!!」
ドサドサと玄関先にいくつもの荷物をおろす音が聞こえた。
「ご苦労様」
自室から顔だけを出して出迎えたヒナにサンジは顔を顰めて言う。
「どう考えても食った分以上働いてる気がすんだけどよ!」
くすくすとサンジの不平を聞き流し、ヒナは顔を引っ込める。
重たげな足音がキッチンへ向かう。紙袋の揺れる音に缶やら瓶やらがぶつかる音が重なる。それから何度か冷蔵庫の扉を開け閉めする音が聞こえ、やがてキッチンは静かになった。
「仰せのとおりにしましたぜ、大佐」
カウンターにもたれ、煙草に火をつけるとサンジは半ばやけ気味にそう報告した。
「じゃあ、出かけましょうか?」
「どこに?」
「海でも見に行く?天気もいいし」
「何で?」
「デート」
何馬鹿なことを、と言いかけて唇は止まった。
部屋から出てきたヒナの姿を見てサンジは思わず息をのむ。
咥えたままの煙草がゆっくりと天に向かい、傾いた。
昨日までは黒の上下を纏っていた女が、今は白の衣装に身を包んでいる。
真白なワンピース。
タイトな上半身は女の形のよさを浮き上がらせ、腰の辺りからすらりと広がるスカートはたおやかな印象を見るものに与える。
紗織のカーディガンを肩にかけ、つばの広い帽子を右手に下げている。細い肩紐の横に見える鎖骨が美しかった。
呆けたように見つめ続けてどれくらいの時が経ったろう。咥えた煙草は、徐々に灰に姿を変え、フィルタ付近にまで迫っていた。
そしてそれは突然音もなく崩れた。
「わっ!?」
落ちた灰が手にあたり、サンジは我に返った。
あたふたと灰を追いかけるサンジを見て、ヒナは声をあげて笑った。
白浜に寄せる波は穏やかだった。泳ぐには寒すぎる浜辺には他に誰もいない。砂浜に腰を下ろし方膝を抱え、サンジは海を眺めている。
波音はサンジに安心感と焦燥感を交互に与えていく。
涙が出そうなほどにそれは懐かしく、同時にその懐かしさの元を思い出せと急かす。
寄せては返し、寄せ手は返し、繰り返し。
それは少し――
「どう?」
降ってきた声がサンジの物思いを絶った。視線を横に向ければ風のって動くスカートの白が目に入る。
「どう、って?」
サンジはその視線を上へと向ける。風に嬲られる髪が邪魔で、サンジは額に手をあて跳ねる髪を押さえた。
「・・・怖い?」
心の深いところを見透かされたような質問にサンジは苦笑する。
「・・・怖くは・・・ねぇよ」
「なら良かった。海が怖いのでは使い物にならないもの」
つば広の帽子を目深にかぶったヒナの表情は見えない。けれども、そう言ったヒナの口元が不敵に笑うのをサンジは見た。
全ての男を魅了するだろう、そんな肢体を包むのは真白な衣装。
帽子からこぼれる長い髪がさらさらと潮風に揺れる。
どこぞの令夫人と言われても疑いはしないだろう。しかし、その女は紛れもなく軍の人間なのだ。
「ったく、サギみてぇな話だよな」
ぼそりと呟き、サンジは立ち上がる。
「何か言って?」
鋭い視線を投げかけるヒナに、
「いいや、こっちの話」
ズボンについた砂を叩き落としながらサンジはしれっとした顔でそう答えた。
「傷はまだ痛む?」
立ち上がったサンジにヒナは問うた。脈絡のない会話に違和感を感じつつサンジは答える。
「いや、もうほとんど―」
大丈夫と続けようとしたサンジに先んじ、ヒナは笑った。
「じゃあ、もういいわね」
何事か、と聞き返す間もなかった。
肩にかけていたカーディガンが砂の上に落ちる。白い腕がまるで蛇のようにサンジの顔面へと襲い掛かってきた。
「んなっ?」
面食らった表情で、それでもサンジはかろうじてヒナの拳をかわす。
一撃目をかわされた直後、ヒナは滑るようにサンジの懐に入り込む。伸びた腕を曲げると、今度は肘でサンジの頭部を狙う。
「ち、ちょ、待!」
言い終える前に肘が叩き込まれる。サンジがしゃがんだ途端、その頭上で空気が鳴いた。ヒナの肘がサンジの髪の先端を掠める。千切れた髪の先が宙を待った。
足場の悪さ、戦いには不向きな格好。それらを全く問題にせず、ヒナは拳を繰り出す。
「待てって!」
ヒナの拳をかわしてサンジは叫ぶと、その手首を掴んだ。
やはり―
ヒナは自分の予想が正しかったことを知った。
記憶と共に失われたもの。
苛烈を極めた足技が今のサンジにはなかった。
どうする?―
失くした武器は大きい。この状態で海軍に引き入れようとするのは時期尚早だろうか。
二つの瞳が交錯する。
その時、風が吹いた。
サンジの瞳に白い帽子が映った。
ヒナの頭上を離れ、海へ向かい、舞い上がる帽子。
それはどこかで見たことのある光景だった。
「あっ・・・う!」
ヒナの手首を掴んだままサンジは片手で頭を押さえ、呻いた。
「サンジ!?」
ヒナが小さく叫び、サンジに向かい手を伸ばしたその時だった。
サンジが強くヒナの手を引いた。大きくバランスを崩したヒナの身体を、今度は押し倒す。
柔らかで温かな砂の上で、二つの身体が重なった。
掴んだ手首が半ばまで砂に埋まっている。押し倒されたヒナの目の前で吐く息と共に金の髪が揺れる。サンジがゆっくりと顔をあげた。
あらわれたその目は、笑っていた。
「・・・俺の勝ち」
「・・・やられたわね」
ヒナは苦笑を浮べた。
さっきの苦しみ様は芝居には見えなかったけれど―
「こんな風に押し倒されるのは何年ぶりかしら」
「そりゃめでたいことで」
「・・・けど、まだ甘いわね」
そう言うとヒナは自由になる片手で一気にスカートをたくし上げる。
剥き出しになったなった白い腿に思わず向けた瞳に、黒のガンベルトが映った。
「私の勝ち」
サンジの顎に銃口を突きつけてヒナは優雅に微笑んだ。
「・・・参りました」
押さえつけていた手首を離すとサンジは両手を挙げ、身体を起こす。
「この分なら大丈夫ね」
半身を起こし、ヒナはサンジを見上げる。
「何が?」
「いいえ、こっちの話」
そう言って小さく笑い、ヒナは持っていた銃をサンジに渡す。
「アナタに渡しておくわ」
ふうん、と手渡された銃を一瞥すると、サンジは躊躇うことなくその銃口をヒナに向けた。
ヒナの後ろにはどこまでも青い海が広がっている。あたりを包むのは波の音と風の音。その中で二人は互いを見ていた。やがてサンジが口を開く。
「言えよ。俺は、アンタの何だ?」
「昔の男」
逃げようとする様子も恐れる様子も見せず、ヒナは本気とも冗談ともとれぬ笑みを見せた。
「嘘つけ」
「そう。私は嘘つきよ」
向けられた銃口を意に介することなく、ヒナは立ち上がる。
「何を聞いても無駄ってことか?」
サンジの問いにヒナは微笑みで答えた。
暫しその笑顔を見つめた後、ったく、と毒気を抜かれたような顔でサンジは構えを解き、腕を下ろした。
海からの風。
ヒナの長い髪が風に踊った。その向こうに何かを見つけ、サンジは突然、ジャケットを脱ぎだした。脱いだジャケットの上に銃を放り投げ、海に向かい駆け出して行く。
波打ち際でシャツとズボンを捲くり、サンジは海中へと足を進める。
その様子を眺めながらヒナは考えていた。
さっきのアレは芝居だったのだろうか―
記憶を失くして尚、掴みにくい男だ。
けれども、使える。足技を失くしているとしても。
「くっそー! 冷てぇ!!」
ヒナの視線の先で、サンジはいっそ無邪気な様子で喚きながら手を伸ばす。
その手の先には、波に漂う白い帽子があった。
ザバザバと波を蹴散らすようにサンジは砂浜に戻ってくる。
白浜が足の形に水を吸い取る。
サンジは濡れた帽子を待っていた女に手渡しニヤリと笑った。
「働かざるもの食うべからず、だろ?」
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