■蒼の記憶

4.

「そういう事で」
そこで一旦言葉を区切ると、椅子に深く腰を下ろしたまま、ヒナは腕組みをする。
デスクの向こうでは、海軍服に身を包んだ屈強な男たちが微動だにせず、次の言葉を待っている。
「しばらくあのコを傍に置いてみることにしたわ」
男のうち幾人かは目を眇め、残りは口をへの字に曲げた。
「よろしいので?」
確認の形をとった反論に、ヒナは瞼を伏せ、大きく頷いた。
「あのコの過去については一切の口外を禁じます」

こうしてみると、サンジの手配書が未だ作られていないことが幸いした。だが、アラバスタ海戦や先の戦い際にその顔を見ているものがいる。
今、ヒナの前に呼び出されているのは、ヒナと共に転属してきた、所謂黒檻部隊を束ねる立場にある者達である。
ここを抑えておけば、ここの支部の一般の海兵にサンジの身元が割れるようなことはないだろう。少なくとも時間は稼げる。後は知らぬ存ぜぬ、他人の空似とでも押し通すしかない。
それで上手くいくかはある意味、博打であるが。
これは、それ故の緘口令であった。

「この先、記憶が戻るようなことがあれば?」
「・・・だから私の傍に置くのよ」
ヒナは伏せていた瞼をゆっくりと上げる。
「そんな素振りを見せるようなことがあれば、私が彼を仕留めることになるわ」
一同を見渡すヒナの瞳には強く、抗いがたい力がある。
「見たところ、あの海賊団は結束が強そうだし。人質にしてみるってのも有りね」
伏せ気味の眼差しで、ヒナは軽く口角を持ち上げる。
寒気を覚えるような酷薄な笑みは、それで部下達の反駁を封じた。


最後の一人が退出し、パタンと扉が閉じられた。その音が消え、代わりにヒナの長い溜息が部屋に流れる。

「我ながらあくどいことを・・・」
歳を重ねる度に表情を作るのが上手くなる。自分でも厭になるくらいに。
呟きを漏らすと、ヒナは肩を震わせる。やがて自嘲の響きにも似た笑い声が低く屋内に満ちた。

記憶が戻ったら――
捕らえる。
人質の価値がある内は生かしておく。
その価値なく、尚且つ、軍に取り込めぬのであれば・・・
始末する。
敵対する者としては当然の対応だ。
だが・・・

発した言葉に嘘はない。けれど、それを実行できるのか、と問われれば答えに窮する。
考えたくないのよね、実際のところ―
賽は振られた。全ては目が出たときに。
全くもって博打ばかりだ。それも、分の良し悪しすら予想もできない。


「そういう事で」
朝と同じ台詞は、日も暮れた頃、自宅のダイニングで繰り返された。
緊張感に満ちた朝とはまるで逆の口調で。発した本人もまた、くつろいだ格好をしている。
柔らかな、薄いサテンの部屋着に身を包んだヒナは、椅子に片足を乗せた格好で腰を下ろし、カウンターに頬杖をついている。
行儀の悪い、こんな姿でも、何故か見ている者にはどこかしどけない印象を抱かせる。
手にしたビールの瓶に直に口づけ、一つ煽ると、ヒナは傍らに立つエプロン姿の男に続きを聞かせた。
「明日の朝から一緒に出勤してもらうわよ」
「同伴出勤?」
ニヤニヤしながら、からかう様な口調でそう尋ねたサンジの足を、ヒナは物も言わず踏みつけた。
ギャア! と飛び上がるサンジを尻目に、ヒナは何事もなかったかのように話を続ける。
「支部内は好きに動いて構わないわ。とりあえず、日中は好きにしてなさい。夜は私の傍で待機」
蹲り、踏まれた足の先を擦っているサンジに向け、よろしくね、見習い君、と涼しげに声をかければ、不満そうな声が足元から上がる。
「働かざるもの―」
言いさしたヒナを、サンジは恨みがましい視線で見上げる。
「・・・これ以上働かせる気かよ」
ここ二日の間で、すっきりと片付いた部屋に温かな食事。
「勿論」
小首を傾げ、女神のごとく微笑むヒナを上目遣いに眺め、唯一にして最大の功労者はがっくりと肩を落とした。



ヒナ嬢に纏わりついているあの男は何者か?

翌日、サンジは好奇心と嫉妬の混ざった視線の集中砲火を浴びることとなった。
当然、それは一日のことで終わるはずもない。視線はどこまでも途切れることなく、ヒナと共に同じ家に戻り、ヒナと共に出勤した次の日には、更に多くの視線に晒されることとなった。
これまで誰一人として招かれたことのないヒナ嬢の家に上がり込む若い男。
軍関係者のうち、男達は、あれは美しい上官の血縁関係者だと自らを納得させるような口ぶりで話し、口さがない女達は、あれはきっと若いツバメだと、無遠慮に噂し合う。

初日をヒナの執務室でただひたすら欠伸を噛み殺して過ごしたサンジは、二日目には出勤早々にその部屋を後にした。
無意識のうちに手は胸のポケットを探り、煙草を取り出す。ひょい、と咥え、ポケットを探るその手が止まった。
廊下で煙草吸うなってたな―
ヒナにきつく言い渡されていたことを思い出し、サンジは火のついてない煙草を咥え、顰め面で歩き出す。
やがて感じるのは、頭の先から爪先までに注がれる視線。そして聞こえてくるひそひそ声。
大股で廊下を歩いていたサンジがピタリと足を止めると、一斉に視線は散り、話し声が止む。
それを二度、三度繰り返し、堪らなくなったサンジは足を止めたまま、くしゃくしゃと頭を掻いた。
鼻から大きく息を吸い、サンジは気を落ち着けるように、床に向け大きく息を吐いた。
身体に馴染んだ味がしない煙草は、気を静める役にはあまり立たない。見回す眼差しは、自然と険のあるものになった。
「・・・・あのなぁ」
誰にともなく突っかかりたい気持ちで、サンジは低く唸る。一同の視線が再びサンジの元に集った。遠巻きに見つめる者達の中から適当な獲物を選んで、サンジが足を踏み出したその時だった。
「おい、アンタ!」
呼びかける声と共に不意に肩を掴まれ、サンジは険しい瞳のまま振り返る。
肩越しに目にした男の姿に、その目からストンと険が落ちた。
「あ・・・アンタ!?」
男の顔を見た瞬間、パン、と厚い防壁にひびが入ったような気がした。だが、そのひびは余りにも小さすぎて、防壁全体を崩すことはなかった。
男を指差し、驚きの声を上げたサンジに、がっしりとした体躯の男は目を細めた。
指差したまま、まじまじと男を見つめ、サンジはまじめくさった顔で首を傾げる。
「・・・・・・・・・・誰だっけ?」
絶妙のタイミングで返された頓珍漢な疑問に、廊下はしん、と静まりかえる。
直後、あっけにとられた表情で固まっていた男が思わず吹き出すと、それを皮切りにサンジの周囲で一斉に笑いが巻き起こった。



「あれ以来姿を見なかったから心配してたんだ」
軍の食堂で、愛想の欠片もない形の椅子を引きながら男は言った。
向かいに座ったサンジに、自らも腰掛けながら男はコーヒーを差し出す。
男はサンジの現状を正しく理解している。
あの戦いに参加した二隻は、黒檻部隊に属する海兵と、その騎下に元来この支部にいた海兵を組み入れた混成部隊で構成されていた。支部の戦力を底上げするべく行われた演習の場で行き合った海賊が、あの麦藁海賊団だった。
元々が陣形を叩き込むための航行演習であったため、純然たる戦闘要員の数が少なかった。それでも海賊を見つけて捨て置くことはできない。その結果は燦々たるものだったが。
「あれ以来?」
聞き返したサンジに男は頷く。
「アンタに助けてもらって以来、だよ」
「俺が・・・・?」
サンジは片手でぐしゃりと己の髪を掻き回した。
「・・・・全っ然、思い出せねぇ」
「思い出せない?」
「頭打って記憶を飛ばしちまったみてぇ。俺」
男は目を見張る。それからテーブルに両手をつくと深々と頭を下げた。
「すまない」
額に拳をあて俯いたまま、立ち上るコーヒーの湯気を見つめていたサンジが、ふと顔を上げる。
「それより、どういう経緯で俺はアンタを助けたんだ?」
サンジの問いかけに、男は静かに首を振った。
「それは・・・・・・・・言えない」
すまない、と苦しげな声音で男は言い、もう一度頭を下げた。
戦いの後、あの場にいた全ての者に緘口令が布かれた。今後、どのような状況下に於いても一切の口外を禁ずる、と厳命した部隊幹部は一切の質問をも許さなかった。
拘束されるでもなく、一人で支部内をうろつくサンジの姿を目にし、男は大いに驚いた。だが、今の会話で男はその理由を悟った。
軍に取り込むつもりか―
「ま、いいさ」
やけにあっさりとサンジは言い放ち、思い出したように煙草に火をつけた。
「何だか知らねぇが、軍には軍の事情があるんだろうよ。アンタも、」
とサンジは男の肩を叩く。
「そんなに気にすんなよ。助けたいと思う理由があったから助けたんだろう、記憶がなくなる前の俺が」
気にするこたぁねぇよ、と繰り返し、サンジは美味そうに煙を吸った。
「それに、アンタが声をかけてくんなかったら、俺、ブチ切れてたもんよ。止めてくれたんだろう、アンタ」
これで互いに貸し借りなしだ、とサンジは笑う。
「いきなり乱闘騒ぎじゃ、大佐に家に入れてもらねぇだろうなぁ」
苦笑するサンジを、男はポカンと見つめ、それから目を見開いた。
「・・・・大佐の若いツバメってアンタのことか!?」
肩を揺らして笑い続ける男をサンジは、何のことか分からないといった顔で見つめる。
「・・・・・ツバメェ!?」
やがてその意を理解したらしく、叫んだサンジは、吐き出した煙に巻かれて盛大にむせた。
「そういう噂が流れてんだよ、昨日から」
笑い含みに返した男の前でサンジは頭を抱える。
「冗談じゃねぇって。んなイイもんじゃねぇよ。メシ作れだの部屋片付けろだの風呂洗えだの。・・・・ったく、体のいい下働きだぜ、俺」
「確かに大変そうだな、あの大佐の傍じゃ気も休まらないだろう?」
切れ者の女将校。その外見と能力から氷の薔薇と言わしめる。この支部内で恐れることなく彼女に纏わりつく命知らずを、男は二人しか知らない。
「別にんなことねぇよ」
意外なほどあっさりとした言葉に、男は驚く。
「おっそろしいトコあるけどよ。酒飲んでヘラヘラしてる分には普通のネェちゃんだぜ」
こともなげにそう言い、うん、と頷いたサンジを男は目を丸くして見つめる。
「・・・アンタ・・・・もしかしたら、凄い大物なのかもな」
「は?」
怪訝そうに眉根を寄せるサンジに、分からなきゃいいんだ、と言って男は笑った。




「後でコーヒーでも持ってくるわ」
そういい残してサンジは部屋を飛び出して行った。
「どうやら大分馴染んだようね」
勢いよく閉まった扉に目を向けて、ヒナはクスリと笑う。

サンジが支部に顔を出すようになって数日が過ぎた。良き緩衝材を得て、周囲との軋轢は予想以下で済んでいた。
サンジが助けた男は、公明正大、勇猛果敢で支部内でも人望の厚い人間だった。そんな男が何くれとなくサンジの面倒を見ている為、自然と周りに人が集まる。
サンジもまた、大勢が集まる雑多な中での生活には慣れていたのだろう。あちらこちらに顔を出しては、ちょっかいをかけたりかけられたりしていた。
昨日は食堂の厨房に入り浸りだったっけ。新しいメニューを生み出した、と戻ってきたときの表情はまるで子供のように純粋なものだった。
では、コーヒーが来るまで頑張ろうかしら―
デスクに広げた書類に視線を戻し、数行を目で追ったところでヒナは異音に気づいた。

遠くから響いてくる重低音。
それは近づいてくるにつれて、ノリの良いダンスナンバーだと分かる。

こんな喧しい登場の仕方をするのは、あのコンビしかない。ヒナは人差し指で眉間を押さえる。

陽気な音楽と、ステップが扉の真ん前でピタリと止まる。それから聞こえてきたノックの音に、ヒナは溜息交じりで入室を許可した。
「ただいま戻りました! ヒナ嬢!!」
そこには、尾っぽを振りそうな勢いで喜びを表している二人の男が敬礼していた。
だが、敬礼を解いても二人は戸口に留まったままで室内に入ってこない。銘々が自分の脇から何かを取り出そうとしている。
「花束なら結構よ」
先んじてヒナが断りを入れると、男達は寂しげに肩を落とす。若干うなだれ気味にヒナの前に進み出た二人は改めて敬礼をする。
「ご命令通り、13支部の周辺海域に探りを入れてきました」
キリリ、と表情を引き締め、報告に入ったのは"両鉄拳"の二つ名を持つフルボトルだった。
「ちゃんと、土産も持ってきましたぜ」
見ようによっては下卑た感のする笑みを浮かべているのが、ジャンゴ。"寝返り"の二つ名が表すように、海賊上がりの海兵だ。
「それは報告を聞くのが楽しみだこと」
ヒナの微笑みに魅了され、思わずやに下がる二人の男。
その背後で扉が叩かれた。
返事も待たずに開いた扉からコーヒーの香りが漂ってくる。
「大佐、コーヒー・・・・って悪ぃ。先客か」
ドアノブに手をかけたまま、サンジは中を伺う。
「悪ぃ・・・・だと?」
久しぶりのスイートタイムに横槍を入れられた格好の二人は頬を引きつらせる。
「我らのヒナ嬢に何、馴れ馴れしい口きいてんだ! テメェはっ!!」
怒りのままに身を翻した二人の目にカップを手にした男の姿が目に入る。

金の髪。
黒のスーツの優男。

きょとんと見つめるサンジの前で、戦闘態勢をとったまま二人は硬化した。視界に入ったものの意味を頭が理解するまでには暫くの時間を要した。
そして、それを理解した瞬間、

「あ゛ぁーーーーーーーーーーっ!!?」

支部中を揺るがすような驚愕の叫びが二人の口から飛び出したのだった。



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