■蒼の記憶

5.

「てっ・・・てっ、手前は暴力コッ、ぐわっ!?」
ぶるぶると震える指をサンジに突きつけ、大声をあげたフルボディであったが、皆まで言うことはできなかった。
上官の手で投げつけられた分厚いファイルが、強かにフルボディの後頭部を打ち、床に落ちている。
思わず蹲るフルボディ。そして唖然とするジャンゴをよそに、ヒナは涼しい顔で笑ってみせた。
「あら、失礼。手が滑ったわ」
堪らずしゃがみ込み、両手で後頭部を押さえて悶えるフルボディにサンジは指を向ける。
「・・・・大丈夫か? この人」
「心配無用よ」
言葉も出ないフルボディの代わりにヒナはそう言って、サンジに目を向けた。
「私、この二人から報告を受けることがあるの。暫くの間、席を外して頂戴」
了解、とそのまま扉を閉めようとしたサンジに、ヒナは思い出したように声をかける。
「あぁ、コーヒーは頂いておくわ」
落ちたファイルを摘み上げ、サンジはコーヒーと共にヒナのデスクに置く。
「ありがとう」
どういたしまして、と振り返ったサンジに目に、蹲ったまま涙目で自分を睨みつける海兵の姿が映った。
その目にはあからさまな敵意を感じる。
なんだ、こいつ?―
ひょいと肩を竦め、サンジは扉を閉める。
刺すようなその視線は部屋を出るまで続いた。


「そう言えば、アナタはあのコと特別な因縁があったんですものね」
くすくすと可笑しそうに笑いながらヒナはフルボディに目をやる。
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒナ嬢! ア、ア、ア、アレは、一体!?」
ようやく立ち上がったフルボディは、サンジが出て行ったドアを指差しながら勢い込んで尋ねる。
デスクの上で両手を組み、ヒナは何でもないことのように言った。
「拾い物。記憶喪失の坊やよ」
「記憶喪失ぅ!?」
声を合わせて繰り返す二人を見上げ、ヒナは続ける。
「だからあのコには余計なことを言わないように。過去の遺恨はさて置き」
ちらり、とフルボディに目をやり、ヒナは人の悪い笑みを浮かべる。フルボディはゴクリと喉を鳴らした。
「ま、まさかとは思いますが、アレをこのままここに置いておくおつもりで・・・?」
恐る恐る尋ねるフルボディに、ヒナは微笑みでもって返答に代えた。ハンマーで思い切り殴られたような顔を晒し、ようやくといった風でフルボディは口を開く。
「な、何でアイツを!?」
「腕は確かよ。それはアナタが身をもって知っているでしょう?」
ぐう、と喉を詰まらせ、反論ままならない相棒に代わって、今度はジャンゴが口を開く。
「けど・・・・海賊ですぜ、ヤツは」
ヒナはさも可笑しげに低く喉を鳴らした。
「アナタがそれを言うの? ジャンゴ」
「う・・・」
いずれにせよ、と不満げな二人を前にヒナは平手でデスクを打つ。
「もう決めたこと。いいわね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・了解」
二人は、消え入りそうな声でしぶしぶながらに了承し、項垂れる。しかし、やがてフルボディが、何かに気づいたように顔を上げた。
「ってことは、アイツは見習いな訳ですよね!」
「ヤツぁ、俺達より格下ってことだ!」
二人は顔を見合わせるとニヤリと頬を歪めた。
呪詛にも似た低い笑い声が徐々に大きくなっていく。
「扱き使ってやる。扱き使ってやる。寝る間もやらん位!」
暗い復讐に燃える瞳で互いを見つめ、二人は手を組み、うん、と頷く。それから一斉にヒナの方へと向き直ると、声を揃えて尋ねた。
「アイツの部屋はどこです!? みっちり扱いてやる!!」
ヒナは二度瞬きをしてから部下の問いに答えた。
「私の家」
「へ?」
聞き返したまま、ポカンと口を開ける二人に、ヒナは噛んで含めるようにもう一度同じ台詞を繰り返した。
「わ・た・く・し・の・い・え」
開いたままの口を閉じ、二人は顔を見合わせる。
「"私の家"ってことは・・・・?」
フルボディの問いに、ジャンゴは呆然としたまま答える。
「・・・・・ヒナ嬢の家」

辛うじて保っていたバランスが崩れた瞬間だった。
凍りついた表情のまま身じろぎ一つしなかった二人だったが、やがてそれも限界を迎える。ピシリ、とひびの入る音が聞こえた気がした。
そうして二人はその場に崩れ落ちた。


「いつまで泣いているの? アナタ達」
めそめそと床に涙の池を作り続けている二人の男に、ヒナは呆れ顔を向ける。
「うぅっ・・・で、ですが、ヒナ嬢・・・ぐすっ・・・」
溜息をつくと、ヒナはその涙にくれた面を冷ややかに見つめる。
「報告もできないのなら用はないわ。下がりなさい。ヒナ不要」
犬でも追い払うように手を振られ、ようやく二人はよろよろと立ち上がる。フルボディは上着の肩口で涙を拭うと、ショックを振り払うように敬礼をした。
「指令にあった海賊船の急襲は成功。該当船の船長を捉え、本支部に輸送、勾留しております」
ただ、と忌々しげな表情を浮かべ、ジャンゴは自らの手のひらに拳を打ちつけた。
「奴等、手前の手で船を沈めやがりまして」
「では、証拠は? 十三支部大佐と彼等が繋がってるという」
「残念ながら海の藻屑で」
直後に聞こえた短い舌打に大仰に身を竦ませた二人に、ヒナは苦笑を向けた。

13支部―それこそがこの度のヒナの転属の目的であった。黒い噂の絶えないトップを更迭するに足る証拠をヒナは欲していた。
そこで白羽の矢を立てたのが、目の前で固まっている二人だった。
一時が万事、大げさでお調子者の二人だ。
だが、この二人こそが最も優秀な斥候であり、また遊撃部隊であることは否定できない。鼻の利くジャンゴと機動力のフルボディ。彼等が組めば予想以上の働きをみせる。
それでも、相手が自らの船を沈めるとは予想していなかったのだろう。
しゅん、としょげる大の男共にヒナは微笑みと言う名の飴を与える。
「それでも、船長を生かして捕らえてきたのはお手柄だったわね。で、何か吐いた?」
「いや、それが何も」
「そう」
キィ、と椅子が鳴る。立ち上がったヒナは二人に背を向け、窓の外を眺める。荒天の海は暗く不規則なうねりを見せる。
「釣れるかしら?」
「恐らく」
独白めいた呟きに答えたのはジャンゴだった。
「あの辺の酒場で聞いたとこだと、例の海賊団の副船長ってのが、俺達が連行してきた船長の実弟でして。まぁ上手くやってたようです」
「取り返しに来ると?」
振り返ったヒナに、ジャンゴは頷く。
「船長捕られて、そうですか、じゃあ海賊の面子が立たねぇですよ」
何か思うところがあったのだろう。ジャンゴはその瞳に苦い懐古の情を垣間見せたが、ヒナはそれには気づかぬ振りをした。
「では、船長から目をはなさぬように。決して死なせては駄目よ。で、十三支部には?」
「見張りを残してあります」
「一緒に踊ってくれればこちらには好都合ね」
フルボディの言葉に、ヒナは満足げに頷く。
「間もなく盛大に漁を始めるわ。一匹たりとも逃すものですか」
いっそ楽しげに、ヒナは不敵な笑みを浮かべる。それはこの女に最もよく似合う笑みだった。




「ったく、やんなるっつうの!」
行儀悪く椅子に腰掛け、憤懣やるかたないという様子でサンジは乱暴に煙を吐き出す。その頭を拳骨で殴りつけたのは、傍らに立つ老軍医だった。
「ここは禁煙だと何度言ったら分かるんじゃ!」
「だから、怪我人の頭を殴んじゃねぇっての!」
呼び出したのはそっちだろう、とぶつくさ呟くサンジの額に老軍医は手を当てる。
「何が怪我人か」
呆れた口調でそう言うと、老軍医は雑な手つきで思い切りよくサンジの額の絆創膏を剥がす。
「いって!」
「全く馬鹿みたいに回復の早い小僧だ」
剥がした絆創膏を屑篭に落とし、老軍医は自分の椅子に腰を下ろす。古びた丸椅子がギシリと軋んだ。
「で、何を荒れとるんだ?」
老軍医の問いかけにサンジは憮然とした表情のまま面倒くさげに口を開く。
「アレだよ。あの大佐の親衛隊の阿呆二人組」
あぁ、と老軍医は苦笑する。親衛隊で阿呆で二人組、その条件を満たす顔が瞬時に浮かんだ。
「あやつ等がどうかしたのか?」
「何かにつけて俺に突っかかってきやがる。あの馬鹿野郎共」
煙と共にサンジは零した。
初めて顔を合わせた時から妙に攻撃的な視線は感じていたのだ。で、実際に攻撃を受けている。
しかも恐ろしく幼稚で馬鹿馬鹿しいやり方で、だ。
きょうび誰が落とし穴なんぞに引っかかると言うのか。しかも掘っている所が丸見えの。
今日も今日とてだ。
階段を下りようとしたところで妙な気配を感じて振り返ったら、自分を突き落とそうとする手が見えた。
「で、どうした?」
「どうしたもこうしたもねぇよ」
何のことはない。サンジは避けただけだった。
何やら複雑に絡まりながら階段を転がり落ちていく二人が見えたが、それは自分の所為ではないとサンジは思う。
「あの有様はその所為か」
泣きながら医務室に入ってきた青痣だらけの二人を思い出し、老軍医は忍び笑いを零す。
「笑い事じゃねぇよ」
差し迫った危険を感じることは全くないが、鬱陶しいことこの上ない。
口をへの字にして黙り込んだサンジに、老軍医は棚から適当な容器を出して茶を淹れた。
「あやつ等は嬢に惚れ込んどるからのう。小僧が羨ましくて憎くて仕方ないんじゃろう」
まぁ、諦めて付き合ってやれ、とあっさり片付けた老軍医にサンジは噛み付く。
「冗談じゃねぇよ!」
「仕方なかろうに。特別な存在というのは往々にして周囲のやっかみを受けるもんだからな」
「・・・特別?」
「何じゃ、自覚がないのか?」
怪訝そうな顔で聞き返したサンジに老軍医は苦笑を向ける。
「嬢が直々に引き抜きをかけるなんてことは滅多にないからの。まして、他人を同居させる嬢なんぞ初めて見たわ」
「そうなのか?」
目を見張るサンジに老軍医は頷いてみせる。
「何もせんでも嬢の周りには幾らでも人は集まる。例の二人組も押しかけ入隊の類だな」

海に咲き誇る氷の薔薇。
それが一番美しく映えるのは戦場だ。
だから、その美しさを瞳に留めたければ戦うしかないのだ。

ふぅん、と分かったのか分からないのか、サンジは曖昧な返事をした。
そのサンジの眼前に老軍医はずい、と身を乗り出す。茶を飲むサンジを見つめるその目が意味ありげに細められた。
「・・・で、もう抱いてもらったか?」
茶の入った容器を傾けたサンジの手が止まる。一拍の後、
ブハーーーッ!!
老軍医の顔めがけてサンジは派手に茶を噴き出した。
すっかり空になった容器をデスクの上に転がし、サンジは身体を折り曲げ盛大にむせた。
「年寄りに風邪ひかす気か!」
再びポカリとやられ、サンジは袖で口元を拭いながら、苦しい息の中で老軍医を睨みつける。しかし、その顔は耳まで真っ赤で、睨みつけたところで全く迫力がなかったが。
「手前が悪ィんじゃねぇか、エロ爺」
顎鬚から茶を滴らせる老軍医は引出から手ぬぐいを二本出すと、一本をサンジに投げ、もう一本で自らの顔を拭く。
「そうか、まだか」
欲しいものがあれば遠慮はしないあの嬢がな―
まだゲホゲホと咳き込んでいるサンジの肩を叩くと、老軍医は嬉しそうな顔を見せた。
「ま、精々大事にしてもらえ」
濡れた髭を扱きながら、老軍医は呵呵と笑った。




遅い夕食を済ませて諸々の片づけを終わらせると、もう間もなく日付越そうかという時間になっていた。
床にペタリと座り込んだまま、手元のコーヒーも冷めるに任せてサンジはぼんやりとヒナの姿を眺めている。
いつものようにソファを独り占めにして、だが、着替えすらせず軍服のままヒナは寝そべり、幾枚もの海図を見比べている。
部隊の配置に何か不都合があったのか眉を顰めたり、逆に悪戯を思いついた子供のような笑みを見せたり。 気づけばそんなヒナをサンジは微笑ましく眺めていた。
やがてヒナの視線は一枚の海図に釘付けとなる。すうと細められる瞳。半眼のままヒナは彫像のように動かない。
海図を見つめるヒナ。そのヒナをサンジは見つめていた。

そんなつもりはないのに、気づけば瞳はヒナを映している。当然のように。
ふいにそのことに気づき、サンジは内心うろたえた。
あの爺が余計なこと言うから―

そう結論づけようとした時だった。ヒナが不意に引き結んだ唇を綻ばせた。喉を鳴らすような低い笑い声によく似合う鮮やかで不敵な笑顔がそこにあった。
サンジの背がぞくりと粟立つ。
軍医の爺が言うのも尤もだ。こんなにも美しいものを見られるなら、傍に居たがるものが後を絶たないのも頷ける。
そんなことは最初から知っていたけれど。
瞳だけでサンジは笑い、そしてそのまま笑みは凍りついた。
最初からっていつだ――?
サンジの手からカップが落ちる。
重い音をたててカップは転がり、床に真黒な溜りを作った。
サンジは腰を浮かせ、床に広がった染みを見つめた。
黒い。暗い。
その色は夜の海を思い起こさせる。その下に一体何が潜んでいるのか、全く分からない。
だが、見つめるうち、その表面が波のように揺らいだような気がした。揺らぐ合間に見えるのは、船影。
今、自分が目にしているのは現実か幻覚か。目を見開くサンジの周囲から音が消えた。

止めておけ――
頭の中で誰かが囁く。
思い出せば夢は覚めるぞ――
止めておけ――
そう囁くその声の主は。

俺だ――

何故止める。何かを思い出しそうになったこの時に。
思えば、過去を取り戻そうとあれほど躍起になっていたのが遠い昔のことのように感じられた。
思い出そうとする自分を止める自分。
思い出さねば。そう焦れば焦るほど大きくなるその声は、思い出せば全てが終わると警告を続けている。

変わることを、いつか来るかもしれない終わりを恐れる自分が、確かに居る
あんなにも、元に戻りたかったのに。
それほどまでに惹かれてしまったのは、果たして場所にか人に、か。
そして、何故思い出してはならないと感じるのか。

「・・・サンジ?」
呆然と床を見つめているサンジを訝しむようにヒナが声をかける。
「どうしてだ?」
それしか言えなかった。戸惑い。混乱。
一体、自分が何を疑問に思っているのかも判然としなくなっていた。

サンジは手を伸ばす。身体は欲望に忠実に動いた。細い手首にサンジの指が食い込む。ヒナの手から海図の束が落ち、床に散った。その内の一枚がコーヒーの作った黒い染みの上に落ちる。闇の色に侵食されていく白。
握り締めたその手をサンジは、強く引く。
引き寄せられたヒナを下から見上げる。戸惑ったその表情にサンジは微笑を向けた。何故、自分が笑っているのかも分からないまま。
何か言おうとしたその唇に、サンジは自らの唇を重ねた。
サンジは目を閉じない。
ヒナの瞼が二、三度震えて閉じられるのを見ていた。長い睫毛を綺麗だと、思った。
音もなく落ちた長い髪がサンジの頬を擽る。
そのまま二人は動かない。サンジの中から雑音が消えた。時間さえも止まったかのように。
唇に感じる温もりに心が騒ぐ。
身体は確かにこの唇を覚えている。
そう感じた瞬間、噴き出した恐怖心にサンジはビクリと身体を震わせる。
それまで繋がっていた身体が、二つに分かれた。
「サンジ・・・・貴方・・・」
「っ・・・俺・・・・・・・・悪ィ」
呟いたサンジは立ち上がり、ヒナの肩に両手を置く。 ここから動かないでくれ、という願いでヒナをソファに押しつけ身を翻す。
足早に部屋を後にし、廊下を抜けて屋外へ。足早な歩調はいつの間にか駆け足へと変わっていた。


走るサンジの姿を月が照らす。 月が作る影を見つめながらサンジは走った。 どこまで走ったろう。やがてサンジは足を止める。人気のない道に、サンジと影だけが在った。
影はどこまでも着いてくる。まるで切り捨てられない記憶のように。
やがて流れてきた雲に月が陰りだす。
影は次第に薄くなり、闇に溶けていく。暗くなっていく前方に人影を見た。
構わずに走り抜ければ、背後でざり、と砂を踏みしめる音が聞こえた。
声をかけられたのはその直後だった。
「お・・・前っ!」
驚いたような男の声がその場に響いた。

サンジが振り向く。

月が完全にその姿を消す。


周囲が真の闇に閉ざされる直前、サンジは男の耳元に見た。
月の最後の光を弾いた金色の輝きを。



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