■蒼の記憶

6.

徐々に早まり、そして遠ざかっていく足音をヒナは微動だにせず聞いていた。
不意打ちのような口づけは一体何を意味するのか。
どうして、と彼は言った。

「それはこっちの台詞よ」
額に手をあて、ヒナは呟く。
全く困った坊やだ。半ば隠された口元は困ったような笑みを刷いた。
いっそ放り出してしまえば簡単なのに、それができないところが忌々しい。
どうしてこんなにもあの男を手に入れたいのか。
理由となり得る言葉ならいくつか知っている。知ってはいるけれど。
それは自分には必要のない感情だ。
何かを振り払うかのようにヒナは顔にかかる髪の毛を振り払った。
サンジの出て行った先を見つめる。
逃げるから―
逃げるから追うのだ。

ヒナは立ち上がり、ジャケットのポケットから何かを取り出す。子電伝虫によく似たそれをヒナは軽く突付く。活動を始めた虫が面倒くさそうに閉じていた目を開ければ、やがてその目は淡い光を放ち、サンジの出て行った方角を示した。
それは電伝虫の亜種だった。サンジに持たせた銃の内部に、ヒナは極々小さい電伝虫を忍ばせていた。その親虫にあたるものが今、ヒナの手のひらにある。親虫は自らの子虫の居場所を探ることが出来る。そんな虫の特性を利用した一種の追跡装置であった。
もっとも、通常の電伝虫に比べればこの亜種は絶対数が少ない。また、生息できる地域も極端に少なかった。暑すぎる場所、寒すぎる場所では全く使用できないのが難点だった。
それでも、今は役に立つ。場所や個体差にもよるが、半径数キロ程度の探査能力は持つ。
その親虫を片手に、ヒナは走り始めた。



お前、と言ったきり男は二の句がつげないでいるようだった。
海から急激に押し寄せてきた暗雲に月はすっかり包まれてしまっている。先程までの月の明るさに慣れてしまった目に、今はかえって闇が深い。
「・・・・何だ? 手前」
目を眇め、サンジは男に声をかける。
「何だ、だと?」
錆を含んだ低い声は男の怒りを伝えてくる。どこかで聞いたろうか。
男は乱暴に砂を蹴りながら近づいてくる。近づくにつれ、闇の中に男の姿形が見て取れるようになった。
背格好は似たようなもの。歩くたびに揺れるあれは刀か。
男が腰に下げている三本もの刀を見とめると、サンジは軽く身構え、スーツの内側に手を入れた。手に触れるのは冷たく硬い感触。そこにはヒナから受け取った銃を忍ばせてある。
サンジの目の前で男が足を止める。サンジは一歩身を引く。
近くで見れば、まだ男は若かった。見た目は自分と大して変わらない―そこでサンジは自分の歳が一体幾つなのか分からないことに気づき、内心で笑った。
短髪とそして何より、片耳に揺れるピアスが妙に心にかかった。けれど、それはゾロという男の名を呼び起こすまでには至らなかった。
ゾロはサンジを見る目を益々険しくさせ、口を開く。
「何惚けたこと言ってやがる。無事ならとっとと――」
「ちょっと待て」
早口で捲し立てるゾロの言葉をサンジが遮った。
「お前・・・・・・・誰だ?」
「あぁ?」
「・・・・・・俺を知ってるのか?」
「な、に言ってやがる」
ゾロは一足で間をつめると、サンジの胸倉を掴む。
「寝惚けてんのか、手前!?」
獣のような眼差しでゾロはサンジを引き寄せる。三連のピアスが鈍く光った。
「まぁ、いい。話は後だ・・・・この島はヤベェ」
そのままサンジを引いていこうとするゾロの手を、サンジは強く払った。
ゆっくりとした動作でサンジは煙草を咥える。カチリと乾いた音がして、ライターが火を吐く。僅かな灯りに照らされたサンジの瞳は鋭く冷たい光を湛えてゾロに向けられていた。
「どこに連れてこうってんだ、てめぇ」
低い声は警戒心を顕わにしている。
「ウルセェ! ゴタゴタ言ってねぇでひとまず来い!」
苛立ちを隠しもせず、ゾロはサンジを睨みつける。その顔を見てサンジは吐き捨てるように笑った。
「手前みてぇな悪党面に誰がのこのこ着いて行くかよ!」
「人のこと言える面か、手前が」
同じような笑みを見せ、それからゾロはふぅと一つ息を吐いた。
「何考えてんのか知らねぇが、ついて来ねぇってんならついて来させるまでだ」
ゾロは腰に下げた三本の内から、白柄の刀を解放する。音もなく現れた白刃には闇の中でも場を圧するほどの存在感があった。
それでもサンジは臆することなく鼻で笑う。
「ようやく本性を現したって訳かよ」
悠然と煙を吐き出しながらサンジは、ジャケットの内側に手を忍ばせる。
互いに距離を測りながら、じりじりと円を描くように移動する。ゾロが刀の握りを変える。澄んだ音をたてて刃が返った。それが合図だった。
猛然と襲い掛かってくる刀の峰をすんでのところで避け、サンジは胸元から銃を取り出す。
狙いを定めるのと、真横からの再びの斬撃を目の当たりにしたのが同時だった。
コイツ、速ぇ―
予想以上の動きの鋭さにサンジは目を剥いた。接近戦では銃の方が分が悪い。
間に合わねぇ!―
不可避と感じた瞬間、身体が勝手に反応した。

刃の腹にサンジの靴底が蹴り込まれていた。

何だ、これは?―
蹴り上げた自分の足を、サンジは見たことのないものを目にしたような顔で見ていた。
身体の中を何かが駆け抜けていった、そんな感じがした。
駆け抜けた後の名残をサンジは呆然としながらも追っていく。
一方、サンジの蹴りにバランスを崩しかけたゾロは忌々しげな表情で、しかし、すぐに体勢を立て直した。
ゾロの険しい顔つきは、呆然と立ち尽くすサンジを見とめて訝しむものになり、そして次の瞬間、驚愕の表情に変わった。
「・・・・・・・・おいっ!!?」
何の前触れもなく、サンジの膝からガクリと力が抜けた。思わず駆け寄ったゾロが慌ててサンジを支える。
「チックショウ、アッタマ、痛ぇ・・・・・」
辛うじてその場に立っているサンジは、自らの髪の中に手を突っ込むと乱暴に掴む。
「おい、どうした!? おい!」
「ウルセェ・・・・怒鳴らねぇでも聞こえんだ!!」
ふらつく足取りの中でサンジはゾロを見上げる。
「おい・・・・手前は知ってるのか? 俺が何だか」
「お前・・・さっきから一体何言ってやがる?」
戸惑いの表情を見せるゾロをサンジは苛立ちのまま睨みつけた。
「分かんねぇもんは分かんねぇんだよ! いいから言えよ! 俺は何だ!?」
「だったら言ってやる! 手前は海――」

ゾロの怒鳴り声を遮ったのは、闇を裂く女の鋭い声だった。
「その男から離れなさい! サンジ!!」
二人の男が視線を向けたその先には、闇に駆ける女の姿があった。
「大佐!」
「大佐、だと? 海軍か!? 手前、何で!?」
サンジの口から出た言葉に驚愕の表情を見せたものの、すかさずゾロは戦闘態勢に入った。下げていた刀を構えなおす。
真直ぐに駆けてくる女は二人の前で身体を低くし、蹴りの態勢に入った。
「!?」
だが、ヒナが蹴りを放った相手はゾロではなくサンジであった。
反射的に身を引いたサンジであったが、予想以上に鋭いヒナの蹴りから左足は逃れることができなかった。
二つの脚がぶつかる。だが予想していた衝撃はなかった。
ただ、表現の仕様のない感覚がサンジを襲った。
「悪いけれど、少しそこで大人しくしていて」
第二撃を今度はゾロに向けて放とうとするヒナを、サンジは追おうとした。しかし、
左足が動かない。
慌てて目をやれば、そこには黒い鉄塊が枷のように嵌められている。
「大佐・・・アンタ――」
呆然と呟くサンジの前で、ヒナはゾロに対して次々と攻撃を繰り出していく。徐々に遠ざかっていく二人をサンジは半ば呆然と見つめていた。

「これ以上あのコを刺激されちゃ困るのよ」
突き出されたヒナの拳をゾロは雪走の柄で弾き返す。
残りを抜刀する暇を与えないほどの連打をかいくぐりながら、ゾロはヒナに問うた。
「手前等、アイツに何しやがった?」
「何もしてやしないわ」
それ自体が刃のようなゾロの視線を受け流し、ヒナは攻撃の手を休めることなく、それでも優雅に笑む。
「むしろ生かしてあげてるのよ」
「そりゃあ、ありがたいこって」
「感謝はいらなくてよ、ヒナ不要」
唇は笑みのままヒナの瞳は鋭さを増す。
「返すつもりは毛頭ないもの」
「何だと?」
「あのコは私がもらったわ」
互いの攻撃は相殺され、二人は弾かれるように へぇ、とゾロは眉根を吊り上げる。それは怒りからか、或いは苛立ちからか。
「あんなエロコックでよけりゃ熨斗つけてやりてぇとこだが」
そう言いながら、僅かな衣擦れの音をさせてゾロはバンダナを解き、自らの頭に巻きつける。
「生憎アレがいねぇと暴動を起こす欠食児童がいるからな」
ゆっくりと二刀を振りかぶる。
「返してもらうぜ!!」
言うやいなや、ゾロは闇すら斬り捨てる勢いで二本の刀を振り下ろす。
鈍色の輝きと共に風が巻き起こる。二筋の風の僅かな隙間にヒナは身を滑りこませると、はらはらと斬られたヒナの髪がその風に舞った。その髪が地面に落ちる前にヒナの掌打が 鬼徹の側面を捉える。
瞬間、危険を知らせるシグナルが明滅した。ゾロの脳裏に先程、サンジの脚に枷を作った女の攻撃が浮かんだ。
抵抗すれば同じよう目に合うってか?―
ゾロはとっさにヒナの掌に動きを合わせる。同じだけの力を同じ方向に受け流す。地面を数度転がりながらゾロはヒナの能力から逃れた。
片膝をついた態勢でゾロは目の前に立ちはだかる女を見つめる。
互いの瞳の中に好戦的な輝きを見つけ、二人同時にニヤリと笑った。
笑いを収め、ゾロが刀を構え直した、その時だった。

銃声が響く。
ゾロの足元の地面が爆ぜた。

「その人にそれ以上手ぇ出すんじゃねぇよ」
それまで激しい戦いを繰り広げていた二人が一斉に一点を見つめる。
その視線の先には、片足を枷に囚われながらも真直ぐに腕を伸ばして銃口を定めるサンジの姿があった。

「こっちからは暗くてよく見えねぇんだ。今度撃ったら当たっちまうかもしれねぇぜ」
口の端を歪めると、サンジはおどけた口調で怒鳴る。しかし、続く一言は真剣な重みを持っていた。
「引け!」
ゾロはちらりと視線をヒナに走らせる。途切れた筈の集中力はもう既に元通りで、予想通り追撃の気配は消えていない。
雑魚なら何十人、否何百人いようと構わないが、この二人を相手にするのは骨だ。ましてやどうみてもサンジは普通ではない。今の状態で連れ戻すのは不可能に近いだろう。
「・・・・・面倒かけやがって」
馬鹿野郎、と舌打ちしたところに、もう一度銃声が響いた。
再び足元を襲った弾は、砂利と小石を巻き上げた。弾け飛ぶ小石をゾロは刀の腹で遮った。
直後の蹴りもまたゾロの予測の範囲にあった。
凄まじい勢いで鼻先を蹴り上げた靴底から逃れ、ゾロは跳ぶ。
低い建物の屋根に飛び乗ると、納刀したゾロはギリとサンジを睨みつけ、叫んだ。
「手ン前っ、後で覚えてろよ!」

と言うことは諦めてはいない訳ね―
建物の向こうへとゾロは消え、既に気配はない。既に闇に塗り替えられたその空間を見上げ、ヒナは髪を払った。息を一つ吐き、サンジの立つ方へ歩き始める
鉄の枷を課せられたまま、サンジは先程までヒナが見ていたあたりに目を向けていた。
ゆっくりとヒナはサンジの元へと近づく。途中、ヒナはサンジの足首に目をやる。軽く目を閉じ、力を抜けば瞬く間にサンジの足に自由が戻った。
だが、それすら気づかぬ様子でサンジは何もない中空を見上げていた。最早何もない虚ろな空間を。
やがてヒナはサンジに並び立つと、その肩を軽く叩く。夢から覚めたような顔を見せたサンジに、ヒナはふ、と笑みを見せた。
「帰るわよ」
そうしてヒナは先を歩く。
「あ・・・あぁ」
ぎこちなく頷いて、サンジは足を踏み出した。
「アイツ・・・・俺のことを知ってた」
ヒナが足を止める。
「そして、大佐。アンタも俺のことを知ってる。けど・・・」
ヒナは無言のまま、振り返ることなく再び歩き出した。その後を悲痛な呟きが追った。
「・・・俺だけが何も分からねぇ」
サンジはそこで口を噤み、ヒナもまた黙したまま夜の道を歩いた。月さえも照らさない道はどこまでも暗い。


家に辿り着いても二人は無言だった。
ヒナは表面上は何事もなかったかのように振舞った。寝室から支部に向け何事かの指示を出した他は、無言でシャワーを浴び、冷蔵庫から酒瓶を一つ摘み上げて寝室へ向かう。
サンジはソファに座り、身動き一つせずに視線だけでヒナを追った。無言のまま。
寝室の扉が閉ざされてサンジはようやく腰を上げる。ふらふらと浴室に向かい、着衣のままで身を投げ出すように流れるシャワーの下に立った。

浴室の壁に手をつき、サンジは頭から水を被った。
目の中に水が入り込むのが嫌で、サンジは目を瞑る。すると、瞼の裏で金のピアスが揺れた。
あの時も揺れていた。
振り向いて不敵に笑う男の顔が浮かぶ。血まみれの口が笑っていた。直後に、男の身体を斜めに走った血飛沫。ゆっくりと倒れる男の耳にあのピアスが光っていた。
あれは何処だ?―
割れた甲板。無残に砕けた破片が浮かぶ海。
何て叫んだ?―
サンジは目を開く。
あれは、ごまかしだ。前に進むことの出来なかった自分の。
何を言ったのかは思い出せないまま、喉が震えた感覚だけが蘇った。そして、
何かを俺は探してた。海に―
一体何を?

海の淵深くに落ち込んでしまった記憶に、サンジの意思とは無関係に次々とストロボがたかれる。

張り付く髪も、重く吸い付く衣服も不快だった。そして、中途半端な己の記憶も。
何もかも流れていってしまえばいいのに。そんな気持ちでサンジは更に蛇口を捻る。顔を上げれば、勢いを増した水がサンジの額を、頬を容赦なく打ち付ける。

どれくらいそうしていただろう。
背後で水を踏む音が聞こえた。サンジは音のした方向に僅かに顔を向ける。
女の素足が水の膜を通して目に映った。白い爪先に見えた赤いペディキュアが綺麗だと、そんなとりとめのないことを考えた自分にサンジは苦笑した。
ゆっくりとサンジは振り返る。血の気の失せた顔で水に打たれるその様は、ヒナに捨てられた人形を思い起こさせた。
「サンジ・・・」
それは、これまで聞いたこともない、心もとない声だった。
ヒナは自身の袖が濡れるのにも構わず、蛇口に手を伸ばし、シャワーを止めた。
糸の切れた人形のように、サンジは浴槽の縁に座り込んだ。
一度浴室を出たヒナは、タオルを片手に戻ってくる。無言のままヒナはタオルをサンジの頭に被せ、髪を拭き、そうして両手で顔を包み込むようにして濡れた頬を拭った。

サンジは何も言わず、されるがままになっている。その上着を脱がそうと、ヒナが両手を伸ばした時だった。
ポツリ、と雫がヒナの腕に落ちた。
ポツリ、ポツリ。続けざまに落ちる雫は、ただの水滴ではなかった。
ヒナが目を見開く。
サンジの瞳から溢れた涙が、頬を伝い、顎を濡らし、落ちてくる。サンジが声も出さずに泣いていた。

俺さ、とポツリとサンジが呟く。
「多分、心のどっかではアンタの傍で生きてくのもいいって、そう思ってたんだ」
抑揚のない口調は、それだけにサンジの懊悩を色濃く伝えた。
なのに、と言ったままサンジは黙る。新たな涙が頬を伝う。
「昔の欠片が頭に刺さるんだ・・・・欠片ばっか・・・そいつらが昔を思い出させようとする。けど思い出せねぇで!」
声が激情の予兆を孕んで震えた。
「・・・・どうして、今、なんだよ?」
悲痛な叫びをあげ、サンジは縋るような目でヒナを見上げる。
「行くことも、戻ることもできねぇ。なぁ、教えてくれよ! 俺は・・・・一体、どっちに行けばいいんだ!」
吐き捨てるように言って、サンジは涙を流し続けた。

上着に触れていたヒナの両手が、ゆっくりとサンジの頬へ向かう。
それでもヒナは迷っていた。

今、触れてしまえば―
その迷いにも関わらず、ヒナの手はサンジの頬を包んだ。冷えた頬を伝っていく涙を、手のひらで拭う。
涙に濡れた瞳が近づく。

今、抱いてしまえば―
記憶の欠片をつなげてしまうことになりかねない。それは分かっていた。分かってはいたが。
目の前で静かに涙を流し続けるサンジをそのままにしておくことは、ヒナには到底出来なかった。
「大――」
開きかけた唇をヒナの唇が静かに塞いだ。



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