■蒼の記憶
7.
触れずとも伝わってくる人肌の温もりと、それが微かに動いた気配でヒナは目を覚ました。
寝室には窓はなかったが、開け放した扉からリビングの光が入り込んでいた。
身体に残された幾つもの跡と気だるい重さが昨夜の情事の名残だった。
黙ったまま気配の元へと顔を向ければ、うつ伏せの姿勢で上半身を起こしたサンジが片手を伸ばして何やら弄っているのが見えた。
唇に咥えて弄ぶ煙草には火がついていない。
身体を起こした拍子にか上掛けは滑り落ち、その上半身は朝の空気に晒されている。
背が、胸が。細身の身体に纏った筋肉がしなやかに動く。肩から伸びた腕のラインが綺麗で、ヒナはじっとそこを見つめていた。
サンジの指先は枕元の棚に置かれている砂時計にあてられている。
木の台座に収まったガラスの器は、その中心で上下が反転するような格好となっている。それは何の変哲もない、ありふれた形の砂時計だった。
透明なガラスの、なめらかな曲線を白い砂粒が滑り落ちていく。指先を器に触れさせたまま、サンジはじっとその様子を見つめていた。
やがて全ての砂が落ちようかとするその時、サンジの指がつい、と器の下部を押した。
過去であった砂が引き戻され、再び動き出す。
どちらにも落ちきらない砂。
その様子に一体何を見ているのだろう。失くした来し方か、見えぬ行く末か。或いは、両端に裂かれようとする自分自身を。
サンジの指先は、まるで気まぐれのように器の中の時を操る。
もしも、人の世を超越する者が存在するならば、こんな風に人の運命を弄んでいるのだろうか。
サンジはただぼんやりと落ちる砂を瞳に映している。表情の乏しいその顔は悲しんでいるようにも、何もかもを突き放してしまったかのようにも見えた。
目の前の男が今何を考えているのか。知りたいと思えど、ヒナの唇は動かなかった。
全く、これではまるで十五、六の小娘のようだ、とヒナは心中で呟く。
砂が流れきる直前、サンジの指が再び器を押し始め、その時、ヒナはサンジの腕に自らの腕を絡めた。
その瞬間、サンジの顔に表情が戻った。
驚いたその顔は、すぐにはにかんだ笑顔になった。
「おはようございます。大佐殿」
常にない馬鹿丁寧な物言いは照れ隠しのようだった。官名とは、一夜を共にした女への呼称としては随分と不適当なものなのだろうが、これまでと変わらぬ呼び方はヒナを安心させた。
「おはよう」
そう言ってヒナは何食わぬ顔でサンジの唇から煙草を抜き取り、咥えた。唇に触れるフィルタにはまだサンジの温もりが残っていた。
手探りでライターを探し、火をつける。
煙を吐き出せば、その向こうに恨めしそうなサンジの顔が見えた。
「起こしたら悪ィと思ってたのに」
しょうがねぇな、とサンジは箱から新しく煙草を取り出した。
「火くらいはくれんだろ?」
そう言ってサンジは顔を寄せる。触れ合った煙草の先端が震え、新しい炎が生まれた。
静かにサンジは身を引く。ヒナが長い時間をかけて煙を吐き出した。
それは安堵の溜息のようにも聞こえた。
「・・・・で、大佐。アンタは何してんの?」
「美味しそうな腕だな、と思って」
見れば、絡めていた腕を引き寄せたヒナが、二の腕の内側の柔らかな部分に唇を寄せている。
「コックの命を食うなよな」
苦笑を浮かべたサンジの瞳が不意に怪しげに光った。身体の向きを変えると、挑むような眼差しでサンジはヒナを見下ろした。
「別なトコなら食っても構わねぇよ」
探るような指先がヒナの手から煙草を取り上げる。片手に二本の煙草を預かり、サンジはヒナに覆いかぶさるようにゆっくりと身体を沈める。二人分の重さにベッドが軋んで沈む。
迷うことなくサンジは唇を近づける。だが、触れ合う直前、枕元に置いたアラームが大音響でタイムアップを告げた。
構わずに口づけようとしたサンジの唇をヒナの手が遮る。
「凄く残念だけど、ここまで。時間よ」
マジかよ!と叫んでサンジは後ろに倒れ込んだ。それから顔だけをヒナに向け、切々と訴える。
「今、無茶苦茶元気なんだけど。俺」
「それはよかったわ。今日から忙しくなるから、仕事で発散して頂戴?」
余裕たっぷりの笑みを見て、サンジは勢いよく枕に頭をめり込ませた。
「ちっくしょう! 寝てたから我慢してたのに! だったら我慢しねぇで入れちまえばよかった!!」
心底口惜しそうなサンジの手から煙草を取り返すと、ヒナは笑いながらサンジを蹴り落とした。
「馬鹿なこと言ってないで早く朝食の支度すること!」
素っ裸のままベッドから追い出されたサンジは、床に落ちていたバスタオルを拾って、あたふたと寝室を後にする。鬼! 悪魔!! と喚きながら。
やがて聞こえてきたのはガチャガチャと道具を取り出す忙しない音。それを聞きながらヒナはくすくすと笑いながら身を起こした。
手近にあったバスローブに袖を通し、歩き出す。
部屋の入口でヒナは振り返った。
ふと目についたのはサンジが動かしていた砂時計。
逆さにされる前に止められた砂時計は真横を向いたまま。両側に分かれた砂はどこにも行かず、その器の中だけは時が止まっていた。
「メシできたぞぉ! 大佐!!」
活きのいい声がヒナを呼んだ。
「今行くわ」
それでも尚、ヒナは閉ざされた時間をじっと見つめていた。
無自覚な、祈りにも似た気持ちで。
「仕掛けるって?」
場所はヒナの執務室。隣に立つ二人からの怨嗟の視線にうんざりしながら、サンジは尋ねた。
デスク越しのヒナはにっこりと笑い、電伝虫に手を伸ばした。
「私・・・・・えぇ、そうです。お変わりなさそうでなによりですわ」
にこやかに談笑しているヒナを、サンジ、フルボディ、ジャンゴは怪訝そうな顔で見ている。
つらつらと、最近の演習の話だとか規律がどうのと話し、ヒナは何気なく、そう言えば、と切り出す。
「お恥ずかしい話なのですが・・・・」
口調は変わらず。だが、もうその顔は笑ってはいない。
「先にこちらで捕縛した海賊船の船長が逃亡しまして」
思わず驚きの声をあげた三人に向け、ヒナは唇に人差し指をあてニヤリと笑った。
「・・・・えぇ。今、全力で捜索してますわ。・・・・・えぇ。島は包囲してありますので、島を離れることはできないでしょうから」
「そちらのお手を煩わせることは・・・・えぇ、お心遣いだけありがたく」
会話を終え、受話器を置くとヒナは、顔を上げた。
「・・・・と、いうこと」
「と、いうことって・・・・・?」
「今から島の周りに船を置くわ。但し、一箇所だけ穴を開けて」
ジャンゴの問いかけに、ヒナはデスクに広げた海図のある一点を指差した。
「ここに誘い込むように」
「誘い込むってぇと・・・・」
「例の船長のお仲間か、或いは電話の相手か」
「では今の電話の相手というのは、やはり・・・・」
渋い顔を見せたフルボディに、ヒナはにっこりと笑みをみせた。
「あなた達は、距離を置いて待機。何かあったら合図を出すわ。足の速い船を使ったとしても、あちらさんのご到着は明日の明け方以降になるでしょうね」
そこでサンジは、はい、と右手を上げた。
「何つーか、俺だけ意味分かってないんだけど」
「分かってなくていいのよ」
楽しそうにそう言うと、ヒナは引出から取り出した物をサンジに向けて放った。
手にした物を見つめ、益々もって首を傾げるサンジ。
「せいぜい頑張って走って頂戴? 朝の元気に期待するわよ」
意味深な台詞と、続いて投げられたウインク。その直後、投げつけられた殺気にサンジは訳も分からず肩を竦めた。
薄汚れた灰茶のローブが朝霧の中に揺れている。
太陽はまだ海に抱かれたままでその姿を現してはいない。
目深に被ったフードの内側で、ぜい、と大きく息を吐いた音は男のものだった。
ローブの男は己の背後を確認すると、木箱の山の合間に身を隠した。
軍管轄の港湾地区の片隅、用済みになった箱やら板やらが雑然と放置されている。身を潜めるのにはそこはうってつけの場所だった。
木箱に背を預け、その男はずるずると腰を下ろした。大きく息を吸う。布についた埃の匂いと、細かな水気が男の肺を満たした。
間もなく日の出だろうか。霧が白く輝きだしている。
大よその時間の見当をつけ、男は抱えた膝に額を乗せた。辺りはしん、と静まり返り、自身の鼓動だけがやけに大きく感じられた。
追っ手の気配はまだない、が。
男は大きく息を吐く。途中で僅かに震え出したその息は、笑っているようにも聞こえた。
やがて呼吸が落ち着くと、男は大儀そうに立ち上がり、僅かに身を覗かせて辺りを見回した。
男は滑るようにそこから姿を現した。見つめる埠頭には海軍船は一隻もない。島の周囲を固めているのだろう。その向こうには朝の光に染まる海がある。
見やった方向に一歩足を踏み出したその時だった。
板切れの立てかけられた建物の向こうから数人の人影がバラバラと姿を現した。
「船長っ! こちらに!!」
急かす海賊達の元へ、船長と呼ばれた男は歩調を早めた。
「待ちなさいっ!」
鋭い声に続いて、朝靄の向こうから女の姿が浮き上がった。
「ソレはこっちのものよ。渡すわけにはいかないわ」
白く光る朝霧を割って近づく黒衣の女。
「海軍か!?」
ざわめく海賊達はやがて手に手に武器を構え、いまだローブを被ったままの船長を庇うように立ちはだかった。
その内の一人が、気勢をあげながら女に向かっていく。手にした戦斧が唸りをあげて女の脳天に襲い掛かっていった。
するり、と女は刃先から身を引く。斬撃は虚しく空を斬り、そして次の瞬間、重そうな音を響かせて戦斧は地に落ち、倒れた。
何事か理解できない男の両腕を巻き込んで、肩から腰へと黒い鉄の枷が巻きついていた。
驚愕の声が辺りに響く。
「女っ!? 手前"黒檻"かっ!!?」
「あら、今頃気づいたの? がっかりだわ。ヒナ落胆」
女は肩にかかった髪を払い、女は優雅に笑んだ。
「能力者ったって相手は一人だ! まとめてかかれぇ!!」
僅かに生じた怯みを払拭するその声に、海賊達は一斉にヒナに向かい武器を振り上げた。
その内の一つがヒナの背後を狙って振り下ろされようとしている。
黙ったまま成り行きを見つめていたローブの男の腕が、その時初めて動いた。
銃声が朝靄の中に響いた。
ヒナを狙っていた男の手が血の色に弾けていた。
「なっ!?」
だらだらと血を流す手のひらを押さえ、蹲る男は目を見開く。船長。船長が何故!?
フードの内側から低い笑い声が聞こえる。
「よっっく見やがれ!」
そう言って、男はフードを外す。金の髪が朝日に輝いた。
「テメェらの船長がこんなイケメンかよ!!」
高らかに言い放つと、サンジはローブの合わせ目を掴んでバサリと剥ぎ取る。埃臭い布の下はいつもの黒スーツ。
ヒナはその様子を見てクスクスと笑った。
「だからさっき言ったでしょう? ソレはこっちのものだって」
ニヤリと口元を歪めたサンジに向け、それにしても、とヒナは大げさに溜息を零してみせた。
「・・・・私が来るまで待て、と言っておいたでしょう」
「いや、大佐が来るの待つまでもねぇと思ってさ。コイツ等隠れてるのバレバレなんだもんよ。俺、笑っちまったよ」
「だったらぼうっと見てないで早く手伝いなさい」
「あれだけ走らせといてよく言うぜ。少しは休ませろっつうの。大体、本当に支部から走らせなくてもいいじゃねぇか」
「作戦のディテールに凝るのが好きなのよ。個人的に」
「・・・・貴様等」
苦笑するサンジを呆然と見上げ、蹲っていた男はようやく声を絞り出した。
「・・・・本物の船長は」
「そんなの、支部の牢屋に決まってるじゃない。大事な生き証人、誰が逃すものですか」
で? とヒナは優雅に笑んだ。
「その船長が逃げたって情報はどこから流れたのかしら?」
「うるせぇ! だったら!!」
各自の手の中で暫しの間眠っていた武器がガチャガチャと目を覚まし始める。
「テメェをふん縛って、取引するだけだっ!!」
胴間声にも平然と、二人は新たに咥えた煙草に火をつける。一つ煙を吐いて、ニヤリと笑うと二人は同時に口を開いた。
「やれるものならやってごらんなさい?」
「やれるもんならやってみやがれ!」
挑発的な笑みが二つ、乱戦の幕を切って落とした。
多勢に無勢。だが、押しているのは明らかに無勢のほうだった。
サンジの銃の腕はなかなかのものだった。意図してのことかどうかは分からないが、器用に相手に致命傷を避けて手傷を負わせていく。
そして、動きの鈍った相手をヒナが易々と絡めとっていった。
見る見るうちに敵の数が少なくなっていく。
「いいようにコケにされた挙句、たった二人に返り討ちとは困ったものですな」
見下すような口調と、続いて聞こえてきたのは、大砲にしては軽い発射音だった。
振り返ったヒナの目に映ったのは、自分を捕えようと迫る数え切れない網の目だった。
監獄弾!!?―
一人の腿を撃ち抜いたところで、異音に気づいたサンジが振り返った。
「・・・大佐っ!?」
何の前ぶりもなく地面に崩れ落ちたヒナを見て、サンジが叫んだ。
一瞬にして身体中の力が失せた。常人であれば片手で持ち上げることのできる網は、能力者をいとも容易く絡めとる。
「誰だっ!?」
サンジの怒鳴り声に、建物の影から黒のローブに身を包んだ男が姿を現した。
「いずれ罠だとは思っていたが、わざわざ掛かりに来て差し上げましたよ」
チチチチチ、と耳障りな声でその男は笑った。
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