■蒼の記憶
8.
姿を現した男は、悠然とヒナを包む網へと近づくと姿勢を低くし、ヒナと目線を合わせる。はらり、と男のローブがはだけた。
「何度かお話はさせてもらってはいたが、実際お目にかかるのはこれが初めてですな」
貧相な顔立ちと、それを補うかのように一部の隙もなく見に付けた軍服が不釣合いだった。階級章など見なくとも、それが十三支部の大佐であることは明らかだった。
「・・・・・十三支部大佐・・・・ネズミ」
ヒナの苦々しい呟きに、ネズミは極めて紳士的な笑みを湛えていたが、瞳は笑っていない。狡猾さが顕わなその眼差しをヒナは嫌悪した。
囚われたヒナは、網の中で片膝を地につけてはいたが、辛うじて身を起こしていた。倒れ伏しそうになる身体を支えているのは、この男の前に屈したくないという思いの強さだけだった。
「お噂通り美しい方だ」
粘着質な声質が不快で、ヒナは男を睨みつけた。その表情を見て、ネズミは一層嬉しそうに目を細めてみせた。
「このまま海賊どもに引き渡そうと思っていたが、そうするには惜しい美しさですな」
そう言ってネズミは網の隙間に指を入れ、ヒナの顎を持ち上げると自らの顔を寄せる。
「テメェっ!!」
目を見開き、サンジは喉を震わせた。
「今すぐその汚ねぇ手ェ離しやがれ!!」
「ん?」
真直ぐに銃を構えたサンジを見て、ネズミは眉を顰めた。
「お前、どこかで見たような・・・・・・まぁ、いい」
サンジには微塵も興味はないらしく、ネズミはヒナに向き直り、それから可笑しそうに肩を揺らした。
「随分毛色の変わった部下をお持ちですな、黒檻殿」
サンジを挑発するように、ネズミはヒナの頬に指先を這わせた。
「―――!!」
怒りで瞳をぎらつかせ、サンジは引き金にかけた指に力を込める。
その時、ネズミは何気ない仕草でもう一方の手をヒナの顔の前に翳す。その手には銃が握られていた。
厭らしい手つきでヒナの頬を包み、その顔を銃口に向けさせた。
「・・・・・・・・テメェ!」
「私としては、こんなに美しい女性の顔を吹き飛ばすなんてしたくはないんだが」
ネズミは勝ち誇った笑みでサンジを見た。
「どうするね?」
「くっ・・・・・・・・・・・・・・・・」
殺気に満ちた眼差しでサンジはネズミを睨みつける。握った拳がぶるぶると震えた。やがて、ネズミを狙っていた銃口がゆっくりと下を向く。その時、苦しげなそれでも真直ぐな声がサンジの耳に届いた。
「撃ち・・なさい、サンジ!」
「大佐!?」
「こんな下種野郎にいい様にされるくらいなら、その方がよっぽどいいわ」
眼前の銃口を見据えながら、それでもヒナは鮮やかに笑った。
「己の地位を金で買うようなこんな男にね」
「これは手厳しい」
ネズミは大仰に肩を竦めてみせた。そうして怒る訳でもなく、悪びれる訳でもなく、口を開く。
「貴女が悪魔の実の能力を使うのと同じですよ。私が金の力を使うのは」
「自らの功でなく得た地位か」
ネズミを睨みつけたままヒナは吐き捨てた。それを受けて、ネズミはさも可笑しそうに声をあげて笑った。
「"自らの功"! そこに価値を見出すかどうかは貴女の自由。ただ、あいにく私には興味のないことで」
とは言え、とネズミは目を細めた。
「私がグランドラインの支部を任されるようになったのは、とある軍功からですよ。貴女はご存知ないかも知れないが。
魚人に牛耳られるところだった東の海を救い、尚且つ、危険な海賊の芽を誰よりも早く見つけて本部に報告した、というね」
「手前が"東の海"を救っただと!? 笑わせんな!!」
眦を吊り上げて会話に割って入ったのはサンジだった。
「あれは―――」
女の頬を流れる涙。
水。岩。刀の煌き。
何だ、これは―――?
頭の奥底で、真暗な海がざわめく。
「っ、くそっ!」
そこでサンジは低く呻いて、額に手をあてた。
眉根を寄せてサンジを一瞥したネズミは、またそこでチチチ、とあの嫌な笑いを零した。
「いずれにせよ、私にとっての正義は、金、なんですよ」
「サンジ!」
ヒナの声にサンジは我に返る。震えそうになる手を押さえ、サンジは銃を握る手に力を込めた。
「こんな下らない男、今すぐ撃ってしまいなさい!」
躊躇うサンジを叱咤するようにヒナは鋭い視線を向けた。
サンジは再び狙いを定める。それを見てヒナは満足げに笑むと声を張り上げた。
「撃てぇっ!!」
ガチリ、と撃鉄の起きる音がした。だが、それは片方の銃だけだった。発射寸前の銃を見て、サンジは溜息と煙とを吐き出してから、銃を握り締めていた指をゆっくりと開いた。落ちた銃は、重い音をたて地に転がった。
「・・・・悪ィ、やっぱ俺には無理だわ」
そう言ってサンジは困ったように軽く笑んだ。
「忠誠心の篤さに涙がでそうですな」
一滴の涙も備えていないであろう瞳でネズミは薄く笑い、サンジの方へと顔を向けた。
「その銃をこちらに寄こすんだ。余計な真似をしたら、分かるな?」
短く舌打ちをし、サンジは足元に落とした銃を蹴ってネズミの元へと滑らせる。
「忠誠心? んな安いもんじゃねぇよ、馬鹿野郎」
誰にも聞こえぬ呟きと共に。
ネズミはヒナに銃を突きつけたまま立ち上がる。そして、滑り込んできた銃を嫌味なほど磨き上げられた靴の下に敷いた。
さて、とネズミはサンジの背後に目をやる。そこにはヒナの呪縛から放たれた海賊達が、傷ついた手足を引きずりながら復讐の時を待っていた。
「この男にはもう用はない。この辺でご退場願いたいのだが・・・・その前に麗しの上官の前で少し踊ってもらおうか」
おどけた口調でそう言うと、ネズミは視線で海賊達を促した。
口の端に下卑た笑いを貼りつけながら近づいてくる海賊達を、サンジはポケットに手を突っ込んだ格好のまま、冷ややかな目で睨みつけていた。
乾いた音が辺りに響いた。
激しく頬を殴られ、サンジの唇から煙草が弾け飛ぶ。
殴られた勢いで流石に体勢は崩したものの、サンジの足は一歩も後には退かなかった。
手の甲で口元を拭う。切れた唇はその手に一筋の血の跡を残した。
何の感慨も抱かずにサンジは自らの手に引かれた赤い線を眺め、それからゆっくりと身を起こした。
相手を睨む瞳から力は些かも失われていなかった。
「こんなもんかよ?」
鼻で笑うサンジに煽られ、激昂した海賊達は容赦なく拳を、蹴りを浴びせていく。見る見るうちにその顔が血で染まっていく。
最初の三発を退くことなく耐えていたサンジだったが、四発目に腹部に叩き込まれた蹴りに、ついに崩れた。
ガクリと地面に膝をついたサンジを見下ろし、海賊の一人が笑いながらサンジの胸倉を掴んで無理やりに引き上げた。
「まだまだこんなもんじゃねぇぜ」
ネズミは愉悦の表情を浮かべ、一方的な私刑を見つめている。
その足元の銃にヒナは視線を向けた。地に縫いつけられたかのように動かぬ手に神経を集中させる。指先がぴくりと反応し、爪先が砂を掻いた。
ほんの一瞬でいい―
ヒナの額に汗が滲む。あそこまで手が届けば。
その耳に拳が肉に叩き込まれる不快な音が聞こえてきた。続いて激しく咳き込むサンジの声が。
ヒナは目を見開く。バランスを崩したようにヒナは倒れ込む。地面を擦るその手が網越しに銃に触れた。
ネズミの驚愕の表情がヒナの視界に入る。その顔に向け、ヒナは引き金を引いた。
一発の銃声が狂騒を鎮めた。
いいようにサンジを嬲っていた男達の手が止まる。血と埃に塗れたサンジも、そして標的となったネズミも。その場にいた全ての人間の動きが止まった。
驚いた表情のままのネズミの頬が裂け、だらりと血が流れた。
自分の頬に手を当て、ネズミはその手を目の前に翳す。血に塗れたその手が見る見るうちにブルブルと震えだした。
「・・・っ、こ、こっ、この・・・アマァ!!」
瞳に宿した狂気のまま、ネズミはヒナに銃口を向け、躊躇うことなく引き金を引いた。
銃声。
サンジが目を見開く。
狂ったような男の哄笑。
「あ・・・・くっ・・・・」
左腿を撃ち抜かれたヒナの下肢はみるみるうちに朱に染まっていく。
「大佐ぁぁっ!!」
ヒナの呻き声に、自失していたサンジが我を取り戻した。
「・・・・き・・・さま・・・っ、貴様ぁぁっっ!」
よろめきながらもヒナの元に駆け寄ろうとしたサンジにネズミは銃口を向ける。
足を止めたサンジの前で、頬から血を流しながらネズミは低く喉を鳴らす。
「すっかり油断しましたよ。この網の中でまだ動けるとは。女だてらに大佐の地位を戴いているだけはある。流石です」
ですから、とネズミは再びヒナに狙いを定める。
「敬意を表して、残りの手足も動かなくして差し上げましょう」
唇を噛み締め、痛みに耐えながら睨みつけるヒナを、ネズミは恍惚の表情を浮かべて見つめた。
「血に染まった貴女は、一層美しい。心配せずとも殺しはしません。可愛がってあげますよ。動けなくした後、この手でたっぷりと」
目の前で倒れ伏した者、銃を突きつける者。その姿をサンジは凝視していた。
握りしめた手のひらに爪が食い込む。その痛みすら感じないほどに。
俺は、俺はまた、何もできないのか?――
目の奥に焼きついてしまったかのような光景。
不意に、その光景が二重映しになった。
倒れた長いコック帽。白いコック服の人物が目の前で倒れている。
あれは誰だ?
あれは・・・・・
あれは・・・・・・・・
クソジジイっ!?――
命の恩人の。養父の。師の顔がはっきりとサンジの脳裏に蘇った。
冗談じゃねぇっ!!――
その時、一陣の風が吹いた。
黒の疾風が目の前を過ぎった。そこでヒナの意識は薄れていった。意識の最奥で続くサンジの声を聞いていた。
「"肩肉"!!!」
ボロ雑巾ような、その身体のどこにこんな力が残されていたのか。目で追えぬ速さで踏み込んできたサンジは、ネズミの目の前で高々と上げた足を渾身の力でもって肩口に叩きつけた。
避ける間などなくまともに一撃を食らったネズミは、銃を取り落とし、その勢いのまま地面に叩きつけられる。
「"腹肉"―」
バウンドした身体を第二撃が襲った。
「"シュート"!!!」
ネズミはもんどりうちながら転がり続け、遥か彼方で止まった。
サンジは口元の血を拭い、空を見上げる。
あれから進歩なしじゃあ、何言われるか分かったもんじゃねぇよ。なぁ、クソジジイ――
ピクリとも動かないネズミから目を離し、サンジはポケットから煙草を取り出す。目を眇めながら火をつけ、ゆらりと振り返った。
そこには何が起こったのか理解できないでいる海賊達が居た。
地面に血の混じった唾を吐き、サンジは乱れたネクタイを弛め、シャツの前をあけた。
その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「よう・・・よくも好き勝手やってくれたじゃねぇか・・・・」
海賊達はゴクリと喉を鳴らす。目の前の男は、先程とは纏う雰囲気が明らかに違っていた。
ゆっくりと近づいてくるサンジの威圧感に海賊達の足が勝手に後退っていく。
「構わねぇ! 相手は一人だ!!」
やがて、その緊張に耐え切れず一斉に海賊達はサンジに飛び掛った。
「"上部もも肉! "尾肉"!!」
地についた両手を支点にサンジの長い脚が唸り、次々と海賊達を弾き飛ばしていく。
「"肩ロース"!!」
「"腰肉"!!」
「"後バラ肉"!!」
辛うじて起き上がった海賊達にサンジは次々に蹴りを叩き込んでいく。
一つ蹴りを放つたびに、記憶の海の真黒な淀みが吹き飛ばされ、青く澄んだものへと変わっていく。
一箇所に、積み上げられるように蹴り飛ばされた海賊達の中には、最早動けるものはいなかった。
「・・・クソが・・・・手前らとは格が違うんだ」
全てを片付けると、煙草の煙と共にサンジはそう呟いた。
風が吹く。埃まみれの髪がざわめく。
風の行く先に目をやれば、そこには青みを増した海があった。
あの海のどこかにある、オールブルーを探して――
そうだ。俺は海賊だった――
そして、あの人は――
煙草を吐き捨て、サンジはヒナの元へと駆け寄った。網を引き剥がし、力の抜けた身体を抱き起こす。
「・・・サンジ」
「終わったよ」
失血で血の気を失った顔で、ヒナは薄く微笑んで頷いた。
「ちょっと痛いかも知れないけど、我慢して」
そう言ってサンジはネクタイを外そうとして、余りに汚れたネクタイに辟易してジャケットを脱いだ。
シャツの片袖を引きちぎると、ヒナの腿の付け根をきつく縛った。
「大丈夫よ、動脈は逸れてるし。後は支部で――」
ヒナの言葉の途中で、サンジは強くヒナを抱きしめた。胸にヒナを閉じ込めてサンジは俯く。
「サンジ・・・・・?」
汚れてしまった金の髪に隠されてその表情は見えない。だが、幾度か躊躇った後、サンジの口が女の名を呼んだ。
「・・・・・ヒナさん」
「――!!?」
サンジの胸の中でヒナは目を見開いた。
再会して初めて呼ばれた名。
そして、それは別れの言葉でもあった。
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