少数お題集


  01.深く青く <サナゾ> Date: 2009-02-19 


愛の女神とやらはどこまでも俺につれないらしい。
そんなことを思いながらサンジは、極力音を殺して煙を吐き出した。
夜更けの甲板。闇の中に向かい合う男女の姿がぼんやりと浮かび上がる。
日中であれば、太陽よりも明るく力強い女の声は、今はか細く、波と風の音にちぎられ、サンジの元までは届かない。
だが、次の瞬間、誰のいたずらか、聞く者の心を乱すような波風の音が、不意に収まった。
女が男を見上げる。
「―――それでもっ!!」
絞り出すような声音がサンジの耳にも聞こえた。
再び風は渦を巻き、女の髪をかき乱す。
向かい合う二人の間にあった微妙な距離が、次の瞬間、消え失せた。
女は、男の胸に額を預けていた。
僅かに重なった影、その中で最初に動いたのは男の腕だった。
躊躇いがちに女の肩に回されようとしていた手は、その身体に触れる直前で止まった。
自らを戒めるかのようにきつく握られた拳は、僅かに震えながら女の元を離れ、ゆっくりと落ちる。
馬鹿が。
サンジは渋面のまま、足元に煙草を吐き出し、踏み潰す。ぼろぼろになった残骸を摘みあげると。きびすを返し、キッチンへと姿を消した。

苦い思いを持て余したまま、眠ることもできずにいたサンジは、棚の中に収められていたグラスにふと目を留めた。
布巾を手に取り、グラスを磨き始める。
もしかしたら心のどこかで期待もしていたのかもしれない。
女がここに来ることを。

指紋一つなく、完璧に磨き上げられたグラスがサンジの前に二つ並び、その手が三つ目を取り上げた頃、果たして扉は遠慮がちに開けられ、姿を見せたナミは、まるでそこにサンジがいることを知っていたかのように、静かな笑みを見せた。
「ちょっとお邪魔してもいい?」
邪魔なんてとんでもない、とサンジは両手を広げた。
「ナミさんに関して言えば、俺の辞書に"邪魔"なんて言葉はないね」
満面の笑みのサンジを見てクスリと笑みをこぼすと、ナミはテーブルについた。
目の前に並ぶグラスを見つめると、ナミはその固く透明な縁を爪の先でなぞる。
「これに何か貰ってもいい?」
「もちろん」
微笑んで見つめられれば、どんな願いだって叶えてあげたくなる。
これに抗える者が居ることが、サンジには信じられなかった。

緩やかな丸みを帯びるグラスの底に、青のリキュールが注がれる。青を映し出すグラスにシャンパンを注き足せば、細かな泡が青の中を煌めきながら立ち上っていく。
「シャンパン・ブルースです」
青色の映える白いコースターに乗せたグラスを、サンジはつい、とナミの前へ滑らせた。
「すごく綺麗」
青で満たされたグラスを見つめて、ナミは感嘆の声を漏らす。
どこまでも透明な青は、船の動きに合わせてグラスの中でゆったりと左右に揺れる。
「飲んじゃうのがもったいないくらい」
冗談めかしたナミにサンジが笑顔を向ける。
「お好きなだけお作りしますよ。レディ」
「なら遠慮なく」
手にしたグラスをく、と傾ければ、とろりとした青は形のよい唇へと吸い込まれていく。
一息で飲み干されたグラスの中に、サンジは次の一杯を注いだ。
「ゴメンね」
「とんでもない」
笑顔を向けるサンジにナミは、そうじゃなくて、と静かに首を振った。
「変に気、使わせちゃって」
バレてたか。

ナミはサンジを見上げているが、その瞳には他の男の姿を映している。
「例えお前の為に死ぬことはできても、お前の為にだけ生きることはできない、だって」
全く感情の篭らない声で、ナミはまるで芝居の一節を読み上げるようにそう言った。
やがてその顔に苦笑が浮かぶ。
「ホントに一言余計なのよね。私の為に死ぬことはできるなんて言わなきゃいいのに」
短い溜息が二人の間に流れた。
「全てを寄越せなんて思ってないのにね」

それは嘘だ。
伏せられた長い睫を見つめながらサンジは思う。
人間の欲には際限がない。
僅かでも手に入れてしまえば、いずれ全てを欲するようになる。
いくら理性で歯止めをかけようとも、感情がそれを許さない。
だからこそ、あのクソ剣士は彼女を受け入れることができないでいるのだろう。

サンジは無言のまま、新しい煙草の先に火をつける。
ゆっくりと立ち昇る煙を目で追いながら、ナミは唇を開く。

「―――なんて、そんなこと嘘ね。きっと」
顔には決して出さなかったサンジの思いを読んだかのように、ナミは陰のある笑みを唇に乗せた。
「それが分かるからゾロだって――――」
震える声を、ナミは、まるで自らの深くに蓋してしまうように飲み込む。そして、次に出てきた言葉は、全くいつもの調子だった。
「ゴメンね。みっともないとこ見せちゃって」
「みっともなくなんて、ないよ」
困ったように笑ってみせる、その表情がサンジの胸にひびを入れる。
「俺は、ナミさんを―――っ!」
そこまで口にしたところでサンジは我に返った。
偉そうに人の分析をしてみても、所詮は自分も同じ穴の狢だ。
好きだ。欲しい、と。
口にしてはいけないと戒ている筈の言葉は、こんなにもたやすく転がり出そうになる。

火のついた激情を押し殺し、サンジは全く別の言葉を続ける。
「俺はナミさんを、ほぼ非の打ち所のないレディだと思ってるんだから」
間髪を入れずにサンジは、唯一にして最大の欠点は、とおどけた表情を作る。
「男の趣味がよろしくないってとこかな」
そんな言葉につられたように、ナミは破顔する。
「悔しいけど、反論できないわね」

クスクスと響く笑い声が不意に途絶えた。
瞬く間に溢れた涙が滑らかな頬を伝い、ナミは慌てて顔を伏せる。
サンジは何も言わず、俯いたまま僅かに震える頭をそっと撫で続けた。

ぽつり、ぽつり、透明な滴がグラスに溶け、その青を海へと近づけていった。

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