字書きさんに100のお題


  26.蜃気楼 <ゾロナミ> Date:  

「何だあの島ぁ!?」
見張り台のウソップが素っ頓狂な声をあげたのは、とある島を出航して間もなくのことだった。
その島にはログが溜まるまで三日滞在した。その間、頭上にあんなものがあったことに誰も気づかなかったというのか?
何の変哲もなかった筈の島。その真上に、まるで空中でぱたりと折り返したように、全く同じ形の島が逆さまに浮かんでいた。
出航して早々、よく陽のあたる甲板で昼寝を決め込んでいたゾロは、その声に薄目を開ける。舷側にクルーが集まり、何やら海上を指差しているのが狭い視界に見えた。
さしたる興味を抱かなかったゾロは大口を開けて欠伸をする。涙で滲む風景の中、揺れるオレンジの髪に何ということはなしに視線が引き寄せられた。手首に巻いたログポースに目をやったナミが、眩しそうに太陽を見上げ、今しがた出航してきた島の方角を振り返った。それからナミは了解したように笑顔をみせた。
「蜃気楼、ね」
「蜃気楼?」
そう、とナミは一つ頷いてから口を開いた。
「大気中での光の屈折で蜃気楼ってのは起きるの。大気中に温度差が無い場合は光は真直ぐに進む。そういう時は見える像は一つだけ。けど、大気の狭い範囲で温度の変化が重なると光は屈折しちゃうの。そうすると元の像に対して上とか下に幻が現れたように見えるわけ」
よどみなく説明するナミの前で、男達は一斉に疑問符を頭の上に乗せる。その中で唯一、納得したように重々しく頷いたのがルフィだった。
「なるほど。つまりは不思議島ってことだな」
「博識なナミさんはやっぱり素敵だっ!!」
解説のし甲斐のない生徒達に、ナミは肩を竦めて苦笑を浮かべた。

「しっかし、あれが幻たぁねぇ・・・」
空に浮かぶ島をまじまじと見つめ、サンジは納得いかないような口調で煙を吐き出した。海は凪の状態で、先ほどから殆ど進んでいない。見上げる空には、変わらずくっきりと"逆さまな島"が浮かんでいる。
「本当はあんじゃねェか? アレ。本物の不思議島!!」
「ナイナイ」
息をまくルフィをナミは軽くあしらう。そんなナミを不満げに眺めたルフィだが、どういう訳かすぐにその顔を明るくした。
「見てくる」
「え?」
ナミが聞き返した時には、ルフィは片手をマストにかけ、もう一方の手をナミに伸ばしていた。
「付き合えよ」
ルフィはナミを抱えると、返事も聞かずに身体を後方に引き絞り、反動をつけ、躊躇うことなく船を飛び出した。
突然の浮遊感にナミはきつく目を閉じ、歯を食いしばる。クルーの叫び声が遥か遠くに聞こえた。
「あっれー!? この辺だと思ったんだけどなぁ?」
片手でマストを掴み、もう一方でナミを抱えて空中に飛び出したルフィは、ゴムの身体の伸びきったところで首を捻り、草履を履いた足先でひょいひょいと空をかいた。そこには島の影も形もない。
「だから"ナイ"って言ったで・・・っ!!?」
早口で捲し立てられるナミの怒声はそこで途切れた。船に向かって引き戻される勢いに、ナミは再び目を瞑った。
そんなナミとは対称的に、ルフィは能天気な表情で空を切りながら「おーい、ゾロ」と甲板に向かって声をかけた。
「今からそっち行くぞー」
甲板に大音響が響き渡ったのは、その暢気な声の一瞬後のことだった。
ナミを庇ってしっかりと抱きしめながら落ちてきたルフィの背をゾロが支えていた。
「・・・・てめェな」
怒気を含んだゾロの低い唸り声をものともせず、ルフィはししし、と笑う。その首に腕を回し、ぴたりとしがみついていたナミがそっと目を開けた。
ルフィの肩越しに二つの視線が交差する。
苛立ちの色を滲ませるゾロの瞳を受けてナミは少し困ったように笑むと、ルフィから身を離し、拳骨でその頭をぱかりと打った。
文字通り飛んできて気遣いを見せるサンジに微笑を返しながらナミは立ち上がる。サンジがルフィに食ってかかっるその騒ぎに乗じてナミはその場を後にした。
その背をゾロの目が追う。

鎮まれ。
ゾロは己にそう言い聞かせたが、心は従おうとしなかった。強く拳を握る。強く強く。
こんなにも苛立っているのは、寝ようとしたところを邪魔されたからだ。そう自分を納得させようとしても、脳裏にはルフィに抱かれたナミの姿がありありと蘇る。
男の首を抱く白い腕。女の背を抱く男の腕。
その度、御しきれない黒蛇がゾロの心の奥底をじくじくと噛み続け、気づかぬ振りをしている欺瞞を暴こうとする。

キッチンの向こうに消えようとしていたナミが、その時不意に振り返った。
消しきることのできなかったゾロの険のある眼差しをナミは静かに見返し、それから、ふ、と目元を和らげた。
駄々を捏ねる子供をあやすような、それは微笑だった。

見透かされている。
ゾロは唇を引き結ぶ。表情の変化は些細なものだっが、ゾロはこんなにも心乱れる己を、内心では大いに恥じていた。
それでも、蛇の噛んだ傷跡から溢れてくる嫉妬の心を抑え留めることはできなかった。怒りにも似た気持ちでゾロはナミを見つめる。それでも微笑を絶やすことなく、ナミは踵を返すとゾロの視界から完全にその姿を消した。

動くな。
ゾロは拳に込める力を更に強くする。手のひらに爪が食い込む。
それでも、ゾロの足はナミを追った。

「待てよ!!」
足音を荒げてゾロはナミに近づく。足を止め、だが振り返らないナミにゾロが手を伸ばす。ナミの手首を掴もうとしたその手は、だが虚しく空をきった。
目を眇めたゾロの前でナミの輪郭は徐々に溶け、やがて消えた。
「残念でした」
クスクスと笑う声の方向に目をやれば、キッチンの壁にもたれてゾロの様子を眺めているナミの姿があった。
「てめェ、遊ぶのもいい加減に―――」
伸ばした手は華奢な肩を通り抜け、硬い壁にぶつかる。
「ダメよ。皆が居るもの」
背後に現れたナミにゾロは振り向かず、視線だけを送った。どうせまた幻だろう。
だが、次の瞬間耳元をちくりと噛まれ、ゾロは反射的に身を捻った。これは本物だ。
「夜にね」
囁くその声は甘く、胸に穿たれた他愛もない傷跡をいとも容易く溶かしていく。
蠱惑的な笑みを一つ残して、ナミは涼しげな顔でゾロから離れる。
手にした天候棒をあっという間に分解してしまうと、ナミは何事もなかったかのように立ち去っていく。その後姿をゾロは呆然と見送った。それから暫くして、ゾロは毒気を抜かれたように小さく笑った。

気づけば、いいようにあしらわれている。
陽の下では触れることもできない。まるで、蜃気楼のような女に。

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