字書きさんに100のお題
数日前までは吐いた息すら凍りつきそうな勢いだったのに、冬島の気候海域から抜けた今、船はすっかり柔らかな空気に包まれている。
空気に色がついて見えるのであれば、今の気候には、真白から桃色へと移る丁度中間のあたりの色がついて見えたろう。
そんな陽気に誘われたのか、夕食後早々にクルーは散っていき、キッチンに残っているのは明日の仕込をするサンジだけとなった。
この分じゃ、見張りの方も怪しいもんだ――
そんなことを思いながら、サンジは寸胴の鍋に浸したレードルをゆっくりと回す。
生まれては消えるその軌跡を目で追えば、眠気は勤務中のコックをも誘惑してくる。
右頬を歪めて欠伸を噛み殺しても眠気は去らず、コクリ、と一度前髪が揺れた。その瞬間、"仕込みの途中で欠伸とはいい度胸じゃねぇか!"なんて怒鳴り声が聞こえた気がして、サンジは反射的に姿勢を正した。
苦笑しながら浮いた灰汁をすくってシンクへと流したその時、サンジは背後に控えめな気配を感じた。
間もなく扉は同じように控えめな音をたてて開いた。
振り返ったサンジの前で、所在なさげに立っていたのはチョッパーだった。
「お、自ら明日のダシ入り志願か?」
悪そうな顔でニヤリ、とサンジはチョッパーをからかう。
だが、チョッパーは消え入りそうな声でううん、と首を振り、幾らかの躊躇をみせてから項垂れたままちょこんとベンチに座った。
いつもとは違った手ごたえのない反応にサンジは目を眇め、首を傾げた。
「どうした?」
灰汁を落としたレードルを鍋に戻し、サンジは火を止めた。
「・・・・ちょっと・・・・眠れなくて」
「そりゃ、あれだけ昼間寝てりゃなぁ」
笑い含みでサンジは言う。昼間、穏やかな日差しの甲板でチョッパーは眠りこけていた。隣で同じく寝こけていたゾロの腹巻にチョッパーを突っ込んで"カンガルーの親子"と皆でゲラゲラ笑っていたのだがそれでも起きやしなかったのだ。
「夜になると・・・何か・・・・眠れなくて」
訥々とチョッパーは語る。
「昼は、大丈夫なんだ。風の匂いが変わって、海の色が変わって。そういうのを見てるとワクワクするんだ」
けど、とチョッパーは言いよどみ、俯いた。サンジはじっと、チョッパーの帽子の天辺を見つめていた。
「夜は・・・・夜になると、海には何も見えない。ただ真っ暗で風の匂いだけがどんどんと変わってく・・・・見えないうちに、どんどんと遠ざかっていくんだ」
どこから、とチョッパーは言わなかったが、サンジには正しく理解できた。
とん、とシンクに腰を預け、サンジは新しい煙草に火をつけた。
「怖ぇか?」
「え?」
目を丸くしてチョッパーはサンジを見上げた。
「ちょっと待ってろ、いいもん作ってやる」
サンジは軽く笑んで、身を翻した。屈みこんでシンク下の扉を開け、奥まで片手を突っ込んで何やら探している。
これこれ、と引き出してきたのは、鮮やかなピンク色が詰まったボトルだった。
それをテーブルの上に置くと、サンジは冷蔵庫に向かう。上部に申し訳程度についている冷凍室から手のひらに乗る位の氷のブロックを取り出した。
「これ何だか分かるか?」
尋ねた顔は優しかった。
「何って・・・・氷」
「どこの氷だと思う?」
「どこのって――え!?」
何かに思い当たったようなチョッパーにサンジは一つ頷く。
「そ。ドラムの氷だぜ。あそこの水は美味かったからな。どさくさ紛れに川の氷蹴り飛ばして欠片を頂いてきたって訳だ」
説明しながらサンジは、アイスピックで手のひらの氷を砕いていく。
手ごろな大きさになった氷をサンジはグラスに入れる。
硬く、そして澄んだ音が二人の間に響いた。
「こいつは"桜"ってリキュールでな」
サンジはグラスの中に、ボトルの中身を注ぐ。高い音をたてて氷が弾けた。
そこに幾らかの牛乳を足して、軽くかき混ぜると、グラスの中に優しい春の色が広がった。それは今、この船を包む空気の色だった。
「これ飲んでとっとと寝ちまいな」
そう言って笑うサンジの顔はとても優しかった。
「甘くて、そんでイイ匂いがする」
一口飲んで、それからチョッパーはグラスに鼻を近づけ、幾度か鼻を鳴らした。
「桜の花と葉っぱを漬けた酒が元だからな」
煙草を消すと、ガタンと床を鳴らしてサンジは椅子を引き、腰を下ろした。
「これが桜の匂いかぁ」
チョッパーは愛おしむようにその香りを吸い込んだ。
「長く居ついた場所を離れるってのは結構キツイもんだな」
一息でグラスの三分の一を空け、チョッパーはグラスを置いた。その黒い瞳が真直ぐにサンジを見つめる。
「サンジもそうだった?」
「こう見えても繊細な俺」
冗談めかした台詞と共にサンジは笑う。やがてその目がふ、と遠くを見つめた。
「俺は、お前よりずっと時間がかかった。決断するまでに、な」
遠くて、それでも決して色あせることのない場所をサンジは見ている。
「そして今でもよく思い出す。景色とか、言葉とか。実際にそこにいた時には何でもなかったようなことばかりな」
「そっか・・・・」
「振り返るのは別に悪いことじゃねぇと思うぜ。振り返れる場所があるってのは凄ぇ幸せなことだと俺ァ思うぜ?」
それに、とサンジは笑う。
「ここは前しか見てねぇような奴等ばっかだからな。だから、タマに後ろを見るヤツがいてもいいんじゃねぇか? お前や俺みたいによ」
チョッパーが再びグラスを手にしたのを見て、サンジは椅子から立ち上がった。
コンロに火を入れ、チョッパーに背を向けたまま声をかけた。
「そのうち本物の桜だって見れんだろ。楽しみだな」
「・・・・うん・・・うん」
その声音が震えて聞こえたので、サンジは振り向かなかった。
時間をかけて一服しながら仕込みを終え、ようやくサンジは振り返る。
見えたのはさっきと同じ帽子の天辺。
くくく、とサンジは低く笑い声を漏らした。
テーブルに突っ伏してチョッパーは眠ってしまっていた。傍らには空のグラス。溶け残った氷が、底でじんわりと春の色を薄くしていた。
どうしたものかね――
肩を竦め、ちらりと天井を見上げたサンジの耳に、何やら呟くチョッパーの声が届いた。
「俺・・・・・頑張ってる、よ・・・・・」
サンジは目を細める。それから暫し考え、帽子の天辺を二度ほど軽く叩いた。
「知ってるよ」
それは、きっと少し前の自分が言いたかった言葉で、そして、恐らくはそう言われただろう言葉だ。
夢の中に声は届いたのか、チョッパーは幸せそうに笑んだ。
その微笑に応えるように、氷はグラスの中で綺麗な音を奏でた。
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