あいうえお44題
「熱心に何見てるの?」
全くの突然に背後からかけられたその声に、難しい顔をしてデスクに向かっていたコーザは、うわ、と間の抜けた声をあげて飛び上がった。
それまで眺めていた数枚の紙が、その拍子に放り出され、ひらひらと床のあちこちに散っていった。
「相変わらず、不用心ね」
「・・・・ビビ」
驚いた表情で振り返ったコーザの目の前には、頭から布を被った少女の姿があった。
「明後日まで公式の仕事がないから、来ちゃった」
絶句したままのコーザを前に、するりとその布をはぐと、幾分済まなそうに笑みを浮かべた顔が現れた。
「ごめんなさい。そんなに驚くと思わなくて」
クスクスと笑いながら、ビビは床に散らばった紙を拾おうと身を屈めた。重なり合った二枚の紙の下部に大層な金額と"海軍"の文字が見え、ビビは首を捻る。
「何、これ? 手配書?」
その途端、ガタリと大きな音をたててコーザが慌てたように立ち上がった。
「触るなっ!!」
「どうしたの? 急に」
驚いた瞳でコーザを見上げたビビは、怪訝そうな表情で手にした二枚の紙に視線を落とした。
その瞳が大きく見開かれる。
手配書にある写真は、一枚は黒髪の少年のもの。そして、もう一枚は―――
「・・・・・・どうして」
かつて敵と憎んだ黒髪の女。
身体から一気に力が抜け、ビビはぺたりと床に尻餅をついた。
「どうして・・・・・この人が、ルフィさん達と一緒に――――?」
俯いたまま発せられる声は掠れていた。微かに震える水色の髪を見つめる瞳を、コーザは眼鏡の上から片手で覆った。
商人の情報は早い。
交易の要所としての機能を回復しつつあるユバに持ち込まれた最新の新聞と手配書。
それが、かの麦わらの一味のものだと知った時の驚きは、次の瞬間、更なる驚きに取って代わられた。
そして、まさにその日にビビがここにやってくるとは。
「落ち着いたか?」
ベッドに腰かけたビビに、コーザは冷えたグラスを手渡した。
「ん」
軽く頷いてグラスを受け取り、ビビは汗をかき始めたそのグラスに口をつけた。
「そんな心配そうな顔しないで」
グラスの中身を一息であけると、ビビはコーザを見上げて小さく笑った。
「吃驚しただけだから」
いつもと変わらぬように見える笑みの、その奥にある硬さにコーザは気づいていた。
「・・・・・お前」
ビビの手から空になったグラスを取り上げ、傍らに置くと、コーザはどさりとビビの隣に腰を下ろした。
「無理すんじゃねェよ」
「え?」
見上げた視線の先、眼鏡の奥に覗く瞳は柔らかな光を宿していた。コーザは手のひらをビビの頭に乗せ、些か乱暴に左右に揺すった。
子供の頃、しょげた仲間によくそうしていたように。
「ここは王宮じゃない。言いたいことがあるなら言っとけ」
引き寄せられるままにコーザの肩に頭を預け、ビビはやがてぽつりと呟くように言った。
「何となく・・・そんな気はしてたんだけど」
ニコ・ロビンの関与を知った海軍は、戦乱の終結の後、やっきになってその行方を追った。
だが、必死の捜索にも関わらず、海軍は捕縛も死体を見つけることもできずに終わった。海軍の封鎖が解ける前にアラバスタを抜けた船はただ一隻。
「けど、実際に知ったら思いのほかショックだったわ」
「・・・・なぁ、ビビ」
呼ぶ声に顔を上げれば、コーザが躊躇いがちに口を開いた。
「まだ・・・・憎いか?」
尋ねるその口調には、まだ生々しい痛みが混じる。
「許してはいない・・・けど、憎いのとは少し違う―――」
父に王墓での出来事を聞いてから、ニコ・ロビンという女はただ憎いだけの存在ではなくなっていた。
古代兵器の在り処を知りながら、それを口にしようとしなかったこと。
そして、何を求めて戦っていたのかを知ってしまったから。
「私も一緒だって思ったの」
「バロックワークスに潜入して、私は国を救いたい一心で、ただそれだけで動いていたけど、その所為で苦しんだ人がいることに私は恐ろしいくらいに無自覚だった」
「誰かを救う為の行いが、別のところで違う誰かを泣かす、か」
そう、とビビは頷く。
「戦いの最中に、彼女は私にそんな話をしたことがあったけど、その時の私には彼女の言うことが理解できなかった。けど、今なら分かる。そして、それは決して忘れてはならないことだとも」
だから、とビビは強い意志の宿った瞳を僅かにゆるめ、小さく笑んだ。
「もう憎んでは、いないわ」
話すうちに心の中が整理されてきたのだろう。その表情から硬さが抜けたのを見て、コーザは立ち上がり、デスクへと向かった。
「すぐに知ることになるだろうから」
手配書の下に畳んで置かれた新聞を手に取ると、ビビの前で足を止め、コーザは新聞を差し出した。
「ニコ・ロビンは一度収監されたらしい。それを麦わらが奪い返した。エニエス・ロビーをおとして」
ビビの伸ばした手がぴたりと止まった。
「エニエス・ロビーですって!!?」
世界政府直下の司法の島。それを。
「・・・・・驚いた」
ビビは大きく息を吐き、そう一言呟いた。他に言葉は見つからなかった。
けれど、変わらない。
利用してやるつもりで乗り込んだ自分の為に、七武海に挑んだ頃と。
スケールは確実に大きくなっているけど。
そんなことを思い、ビビはクスリと笑みを零した。
そして、同時に胸のどこかが鈍く痛んだ。
彼らにそこまでさせる。彼女は真実、彼らの仲間なのだ、と。
「ビビ?」
不思議そうな顔で見つめるコーザにビビは複雑な笑顔を向けた。
「分かったわ。このモヤモヤの原因」
そう言って、ビビはコツンと拳で胸を叩いた。
「焼きもちね。単なる」
「私が居ることのできない場所に、居られる彼女に」
成る程な、とコーザは顎を人撫でする。
「それなら、俺だってそうだ」
「コーザ?」
「お前にそんな風に思わせる麦わらに、今度は俺が妬ける」
苦笑を浮かべるコーザを見上げ、ややあってからビビは噴き出した。
「そんなもんだ。気に止むことなんてないだろ?」
そうね、とビビは柔らかな笑みを見せた。
「会ってみたいな、俺もそいつらに」
「会えるわよ。いつか、きっと」
確信に満ちたビビの言葉に、笑みを誘われたコーザが、ふと真顔でビビに問うた。
「ニコ・ロビンともか?」
そうね、とビビは挑戦的な瞳で宙を見つめた。
「会ったら一発ぶん殴って」
突然飛び出した物騒な台詞に目を剥いたコーザを前に、ビビは華やかな笑みを咲かせた。
「それから乾杯するわ」
そうして可愛らしいウインクを一つ。
「それが正しい海賊ってもんじゃない?」
そうしてビビは手元に視線を落とした。
手にした新聞には、戦闘中のものであろう白煙の中に立つ少年の背が写った小さな写真が載っている。
あらゆるものを越えて海を往く少年の。
ビビはそっと目を閉じる。
この人の心はまるで大きな船で、これからもきっと多くの人が乗り込んでいくのだろう。
それでも、際限の見えないほど大きなその船には、降りた者の為の場所もずっと残されている。
きっとそうだと、私は信じています。
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