あいうえお44題


  す : 涼風の歌声 <過去ゾロ> Date:  



空の彼方で、風が鳴った。
船壁にもたれて目を閉じていたゾロが薄くその目を開いた。
こんな風に風の強い日には、ふと思い出すことがある。


それはどこにでもある港町だった。
故郷を離れ、あてにならぬ噂話一つを頼りに、あてにならぬ方向感覚で海と陸を往くゾロにとって、そこを訪れたのは単なる偶然だった。
海と山に囲まれた、林業の他にめぼしい産業も景観もとくに持たないその町に、たった一つだけ名物があった。

町に宿は一軒しかないと言う。宿の場所を尋ねると、露店の親父はすぐ向かいにある建物を指差したので、ゾロは迷うことなくそこに辿り着くことができた。
さほど大きくはない古びた二階建ての建物。二階には一つも灯りが灯っていないが、一階には煌々と灯りが灯されていた。恐らくは酒場を兼ねているのだろう。ゾロは扉に手をかけ、押し開く。
軋む音をたてて扉は開く。予想通り中は酒場だった。広くはない店はそれでも中々盛況のようで、全てのテーブルに客がついていた。店内に足を踏み入れた途端、店中の客が振り返り、煩わしそうな視線をゾロに向ける。中には口元に指をあて、静かにするように促す者もいた。
何事かと面食らった瞬間、店の奥の一段高くなった場所に立っていた少女が、そんなゾロを見て笑った。それから少女は目を閉じ、軽く両手を広げて歌いだす。
粗末な店内には全く不釣合いな、朗々たる伸びやかな歌声だった。
驚いたように立ち尽くすゾロの元に、人のよさそうな顔をした親父が近づいてくる。静かに扉を閉めると、入口近くのカウンターに来るようゾロを促す。
「大したもんだろう? うちの"歌姫"は」
声を潜め、だが誇らしげに主人は少女に目をやる。
素直に頷いたゾロに、主人は嬉しそうに目を細め、食事か宿かを問うた。どちらも、とゾロが答えると、主人は空いている席に座って待つように言った。
ゾロは歌い続けている少女を見つめた。年の頃は自分と同じ十五、六といったところだろうか。
空腹も忘れてしまうほどに耳に心地よく滑り込んでくる歌声。誇りに思うのも無理はない。ゾロはこれほどまでに美しい歌声を聴いたことがなかった。

三曲を歌い、少女が客に向かって丁寧に頭を下げると、拍手が鳴り響いた。その音が止むと、ある者は食事の続きに取り掛かり、またある者は酒盃を傾ける。ゾロの向かいに座っていた男は少女のもとへ足を運び、何やらチップを渡していたようだった。同じような者が幾人もいる。そんな光景を見るでもなく見ていたゾロのもとへ、ようやく食事が運ばれてきた。
サービスよく切り分けられた肉と格闘を始めて間もなく、ゾロの向かいにふわりと人影が現れた。
口いっぱいに肉を頬張りながらゾロが顔を上げると、そこには先程までステージに立っていた少女の姿があった。
「こんばんは」
そう言ってにっこりと笑った少女をゾロは訝しげに見つめた。


一夜の宿と思ったその場所に、ゾロはまだ留まっていた。
初日に主人の気まぐれで開催された腕相撲大会でゾロはその場にいた全ての大人を破ってみせたのだった。その腕っぷしを近所の材木商に買われ、木材の切り出し並びに港への運び出しにスカウトされたのだ。路銀も心許なくなってきていたゾロにはさして断る理由もなく、その話を受けた。以来、ここが定宿となっている。

日に幾度も山と港の間を往復し、日当を貰い、夜には少女の歌声と共に食事をとる。それがゾロの日課となった。
少女は、ある時はその年に似付かわしくない艶やかな声で愛を歌い、ある時は、旅人から教わったという異国の光景を歌った。
出番が終わると少女は、度々ゾロのもとにやってきては、これまでの旅の様子を聞きたがった。当初はそっけない態度をとることの多かったゾロだが、やがて二言三言と言葉を交わすようになり、今では少女がゾロのもとを訪れるのも日課のようになっていた。
「いつか、私も海に出るんだ」
そう言って少女は瞳を輝かせた。色々な場所を旅して、様々な歌を聴いて歌いたい、と。
「別に、出たきゃ今すぐでも出たらいいだろうが」
そう言うゾロに少女は首を振った。
「今はダメ。ホラ、ここの宿もう結構ガタがきてるでしょ? この宿を綺麗に建てかえられるまで私はここで頑張って歌うの。それが私の恩返し」
「恩返し?」
そう、と少女は頷く。
「拾ってもらったの。私。おじさんに」
「おじさんて、ここの主人か?」
「そう。うんと小さい頃、宿に置いていかれたの」
けど、と自らの境遇を卑下するでもなく、少女は快活に笑う。
「絶対絶対海には出るんだから!」
ふわふわとした外見は、ゾロの知る少女とはまったく趣が異なる。けれどもその瞳に込められた強い意志はゾロに黒髪の少女の姿を思い出させた。


更に幾日か過ぎた後のことだった。
山中の切り出し場に男が一人駆け込んできた。青ざめた顔のその男は、息せき切って町に海賊が現れたことを告げた。
近隣の島に名高い「歌姫」を連れ去り、どこぞに売り払おうという腹だったらしい。
真直ぐに宿を目指した海賊達が、宿中を荒らし回り、無理矢理に少女を攫おうとしたこと。邪魔立てをした宿の主人に深手を負わせたことを男はたどたどしい口調で伝えた。
「それで、アイツは!?」
胸倉を掴むばかりの勢いで尋ねたゾロに、男は暗い顔を向けた。

窓ガラスは割られ、扉の蝶番は外れ。外から見ただけでも宿は荒れ果てていた。思わず足を止めたゾロの前で壊れかけた扉が開く。担架に乗せられた主人の顔にはいつもの笑みはなく、苦痛にか悲痛にか顔を歪ませていた。
「オヤジ!!」
「俺は・・・・平気だ・・・っ・・・・それより」
駆け寄ったゾロに、店主は痛みを堪え、気丈にも言葉を発する。
「それより、アイツのとこに行ってやって、くれ・・・・多分・・・アンタを、待ってる」
そう伝えると、店主は気力を使い切ったように、担架の上でぐったりと目を閉じた。慌しく運ばれていく担架を視界の端に、ゾロは中に足を踏み入れた。崩れた壁と、叩き壊されたテーブル。残骸と化した店の調度の奥に、少女の姿があった。

相当に抵抗をしたのだろう。柔らかくその身を包んでいた髪を乱したまま、少女は壁にもたれていた。腹部に突き刺さったままのナイフから滴る血が少女の下肢と床を赤く染め抜いていた。

「おいっっ!!」
少女の傍らに屈み、ゾロは血の気を失った頬に手を当てる。
ゾロの呼びかけに、その瞼が弱々しく震え、やがてゆっくりと開いた。
「・・・・おじ、さんは?」
「大丈夫だ。助かる」
ゾロが断言すると、少女は安堵したように小さく息を吐いた。
「私・・・負けなかった、よ。私、は誰にも歌わされなんか、絶対に、しない。私は、私の意志で、歌う」
そう言って少女はゾロへと顔を向ける。
「立たせて」
首を振ったゾロの目を少女は真直ぐに見つめる。
「歌わせて・・・・最後に」
ゾロは俯き、強く目を瞑った。これは、断っていい依頼ではなかった。

ゾロの肩を借りて立ち上がると、次の瞬間、少女はしゃんと背を伸ばした。瀕死の身体のどこにそんな力が残っているのか、ゾロの手を借りることなく少女は自力でステージに立っていた。
ゾロはステージを降り、床に転がっていた椅子を立てるといつものように腰を下ろした。

ゾロに微かな笑みを向けると、少女は唇を開く。澄んだ声が高く、時に低く、荒れ果てた店内に響く。
それはたった一人の為の、最後のステージだった。
歌が終わり、少女はいつものように丁寧に頭を下げる。その頭は二度と上がることはなかった。そのまま床に崩れ落ちた身体を、ゾロは抱きとめた。もう動かない。もう歌わないその身体を。



一人、店内から出てきたゾロを見て、集まっていた住人は息を飲んだ。
緑の髪に真黒の手ぬぐいを巻きつけ、それまで腰から外したことのなかった刀を左手に下げている。触れただけで斬られそうな鋭い気を纏った少年に、周りは自然と道を開けた。


通いなれた港に、海賊旗を掲げた船が悪びれもせず停泊している。ゾロは躊躇うことなく、甲板から伸びる縄梯子に手をかけた。
「何だ?」
近づいて来る者の気配に気づいた男が、船壁から身を乗り出し下を覗いた。次の瞬間、その首が飛び、その首を追いかけるように身体が海へと落ちた。
生温かい血飛沫がゾロの頬に飛ぶ。手の甲でそれを拭い、ゾロは唇を引き結んだ。
一瞬にして騒然とした甲板は、乗り込んだゾロの姿に一気に殺気立つ。
「何だてめェ!!!」
ゾロは無言のまま手にした刀を咥える。その隙を狙って飛び掛ってきた二人の男を右に抜いた刀、左に抜いた刀でそれぞれ逆袈裟に斬り上げた。
躊躇いのないその斬り口に思わず怯んだ海賊達は、次の瞬間、雄叫びを上げてゾロに向かっていく。薙ぎ払い、斬り裂き。瞬きの間に辺りは血の色に染まった。

「騒がしいぞ、てめェら!!」
怒号と悲鳴が湧き起こる中、低くざらついた声が奥から響いてきた。
頭、と呼ぶ声が方々から上がる。
現れたのはがっしりとした、だが狡猾そうな目をした男だった。頭と呼ばれたその男は、値踏みするかのようにゾロを見回した。
「何だ? 仇討ちか?」
「別にそういうつもりはねェよ」
男は目を眇める。
「じゃあ雇われでもしたか? 町の連中に」
「違う」
「じゃあ、何の為にここまでやった、小僧」
その問いに答えることなく、ゾロは男に近づいていく。そんなゾロを理解しがたいといった目で男は眺め、その歩みを押し留めようとするかの如くに右手を開いた。
「まあいい。なら俺がお前を雇おう。ここでの事は水に流してやってもいい。何が望みだ? 金か? 地位か?」
ゾロは無言のまま足を止める。両手に下げた二刀の露を払い、鞘に納める。咥えていた和道を右手に持ち替え、ゾロは薄く笑んだ。
男はその笑みを了承の意ととったらしい。瞳の奥が安堵の思いで揺れたのをゾロは見逃さなかった。
次の瞬間、男の顔は驚愕の形に歪み、硬直した。
その口の端から一筋、紅い線が走り、床へと滴り落ちる。
喉を刺し貫いた切先からも同じ色の雫が音もなく落ちていった。

一足飛びに男に刀を突き立てたゾロは、見開かれた瞳を至近距離で見つめる。
「誰も、俺に何かを斬らせることはできねェ。俺は、俺の斬りたいものを斬る。それだけだ」

それはまさしく少女が今わの際に残したものと同意の言葉だった。
形は違えど同じ志を持ったものへの、これは手向けだった。

男にそう告げ、ゾロは刀を抜く。
血を噴き上げながら崩れ落ちる男を見送り、周囲に残る海賊共に鋭い視線を走らせた。
「まだやるか?」
一斉に息を飲む音が聞こえる。その場にいたものは皆、己より一回りも二回りも年若い少年に完全に呑まれていた。

後退る音が一つ聞こえれば、崩壊はあっという間だった。我先に船壁を乗り越えようとする海賊達。海へと飛び込む水音が連鎖的に続いた。
そして、その音を追うようにいくつもの銃声が鳴り響く。船の外で短い悲鳴がいくつも上がり、やがて消えた。
ざわざわとした人の気配に、抜き身の刀を下げたままゾロは振り返る。
続々と甲板に乗り込んできたのは海兵だった。
海兵達は一様に、酸鼻を極める船内と、そこにただ一人血に塗れた姿で立つ少年の姿を言葉もなく見つめた。
「ロロノアというのは、君か?」
動くもののない海兵の中で、唯一声を上げた背の高い男は支部少佐を名乗り、近づいてきた。
「町の者から事情は聞いている・・・・・が、よくも一人でこれだけ・・・・・」
血の海を跨ぎ越し、男はゾロの傍らに身を屈め、足元に倒れ伏した死体の髪を掴み上げ、その顔を視認した。
立ち上がり、男はゾロを見下ろし、口を開く。
「これから一緒に支部まで来てもらう」
その言葉に、警戒の色を浮かべたゾロに男は苦笑を向ける。
「咎めだてする訳じゃない。知らなかったのか? コイツは賞金首だ」
「賞金首?」
眉根を寄せたゾロの前に、男は一枚の紙を広げて見せた。
"WANTED"の文字の下に、ついさっき斬り倒した男の顔と、500万ベリーの金額が記されている。
「こいつを俺が受け取れんのか?」
男が頷いたのを見て、ゾロは笑う。ようやく少年らしい表情がその顔に戻った
「なら、一つ頼まれてくれるか?」


その後、ゾロがその島に戻ることはなかった。
手にした賞金の全てを宿の主人に届けるよう海兵に依頼し、再び海を渡った。海賊狩りのゾロの誕生だった。


それから時は流れ――――
「さ、三刀!!?」
「貴様! 海賊狩りかっ!?」
殺気立つ海賊達を前に、かつての少年は不敵な笑みをその口に乗せた。
「好きに呼べよ」
一人、また一人と賞金首を討ち取るたびに、"海賊狩りのゾロ"の名は広まっていった。


更に時が経ち――――
そういや、あれが自分の狩った最初の賞金首だった。
薄く開けた目で空を見上げれば、青い空に風が雲を運んできた。
それが今や自分が海賊とは、人生とは可笑しいもんだ。

ゾロは微かな笑みを浮かべ、再び目を閉じると風の歌に耳を傾けた。

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