あいうえお44題


  そ : そう遠くない未来に <ヒナ> Date:  



デスクの片隅に置かれた電伝虫が本部からのホットラインを告げたのは、執務室にてヒナが書類仕事を片付けていた最中だった。
「第・・・・」
「よォ、ヒナちゃん。元気?」
所属すら名乗る間もなく聞こえてきた軽い調子の男の声に、ヒナは苦笑を浮かべた。
海軍本部大佐・黒檻のヒナを「ちゃん」付けで呼べる男など極々僅かである。
「今度メシでもどうよ? 最近毎日爺様達の相手でウンザリしてんのよ」
クスリと笑みを零し、ヒナは綺麗に紅の引かれた唇を開く。
「大将閣下、御自らのお誘い恐縮ですわ。お忙しい最中に」
「全くだってェの」
うんざりとしたような青キジの声が電伝虫の向こうから聞こえてきた。
アラバスタの動乱が終結してまだ日は浅い。アラバスタ国内に限って言えば、王の強い指導力の元、復興に向けまとまりを見せているが、世界政府の方は今回の件にいかに決着をつけるか、対応に苦慮している向きがあった。
その中枢に近いこの男も知らぬを決め込むわけにはいかぬようだ。
「八方丸く収める案を蹴り飛ばしてくれたバカのお陰でな」
「ご心労お察し申し上げますわ」
「そう思うなら、メシと愚痴に付きあってくれてもいいだろう? 一晩くらい」
ついでに、と青キジは声を潜め、真剣味を強めた声音で続きを口にした。
「今回の"海軍の功"、アンタに受けてもらいたい」
そんなことだろうと思った。
ヒナは僅かに目を細め、遠くを見つめた。

噛みついてきた飼犬を処罰するのは飼主でなければ面目が立たぬ。
麦わらを追うことで結果としてこの件に深く関わることとなったスモーカーに「クソ喰らえ」の一言で拒絶されたその役を、自分に演じさせようという腹か。
知らず唇を噛んでいたことに気づき、ヒナは僅かに色の剥げた唇を歪めた。
あの時は「受けなさい」等と偉そうに言っていたけれど、実際我が身に降りかかってみれば確かにいい気はしない。

ヒナは長い睫毛を伏せた。
偽りの功に与えられるのは月桂冠ではない。むしろそれは―――

それでも―――

一拍を置いて、ヒナは目を開け、凛とした口調で返答した。
「謹んでお受けしますわ。その茨の冠」
迷いのない瞳でじっと前を見据える。
ああ、と短く応じ、青キジは微かに息を吐いた。
「確かに・・・・こいつァ、功を盗んだとの謗りを免れん昇進だ」
「全て承知の上です」
「頭が良くて度量のでかい部下を持てて嬉しいよ。これで爺様達にこれ以上あのバカを憎ませずにすむ」
「バカバカと仰るわりに随分面倒見がよろしくてらっしゃる」
笑い含みのヒナの言葉に、電伝虫の向こうから苦笑の漏れる気配がした。

灯りを落とした室内で、デスクに浅く腰をかけた格好の青キジは、電伝虫を片手に、役者には向かぬ部下に思いを馳せた。
アラバスタ動乱の末期、疲弊し倒れ伏した麦わら一味の捕縛を潔しとしなかった部下を一切処断しなかったスモーカー。
そのことは青キジに、かつて己の意思で一人の少女を逃がした自分を思い起こさせた。

片頬を持ち上げ、青キジは肩を竦めた。
「俺は結構古風な男でね。義理だの筋だの面倒なものを抱えてるヤツは嫌いじゃねェのよ・・・・・・・それでアンタには苦労させることになるが」

「労いにも礼にも及びません」
唇に笑みを湛え、ヒナは続ける。
「結局のところ、私自身に利があると思えばこそお受けしたつもりですから。このお話」

演じろというなら完璧に演じきるだけだ。
いずれにせよ、すぐに誰の口からも文句など出ぬようにしてみせる。

「頼もしいねェ」
元来の飄々とした口調に戻し、青キジは口笛でヒナを称えた。
「んじゃ、話もまとまったとこで。どう? ヒナちゃん、昇進祝いの食事でも? 勿論、あのバカのつけでな」
思わず噴出し、ヒナは唇を指で押さえた。
「そういうお話なら喜んで」

鮮やかに笑んだヒナは、彼なりのやり方で、近いうちにのし上がってくるだろうスモーカーのことを思った。

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