あいうえお44題


  な : 何度となく君は<少年ゾロ> Date:  


板張りの道場の真ん中で大の字で伸びていた子供が、むくりと起き上がった。
その拍子に、額に置かれていたのだろう、濡れた手ぬぐいが腹の上に転がり落ちる。子供は、いまだ焦点の定まらぬ目でぼんやりとそれを眺めた。
開け放したままの出入り口からは夕方の色に染まった日の光が射し込んでいる。遠くでカラスの鳴く声が聞こえた。
「目が覚めたかい? ゾロ」
いつもと変わらぬ穏やかな師の声にゾロは振り返る。
正座する師の前には真新しい竹刀が幾つか並んでいる。弛んだ弦を締め直しながら、コウシロウは尋ねた。
「頭は痛くないかい?」
ゾロはすっかり温くなってしまった手ぬぐいを手に取り、首を横に振った。そこでようやく頭がしゃんとしてきたのか、ゾロは勢いよく立ち上がると師に詰め寄った。
「勝負は!? 俺とくいなどっちが勝ったんだ!!?」
くいなの狙ってきた小手は捌いたはずだった。右の竹刀でくいなの剣先を弾いて、左手を振り上げた記憶がある。あれが入っていれば、今日こそ自分の勝ちだった。
コウシロウは静かな笑みで、ゾロがその手に握っている手ぬぐいを指差した。
「それ、くいなの手ぬぐいだよ。君、頭からひっくり返ったもんだから、あの子が濡らしてきたんだね」
師の言葉に、ゾロはじっと手元を見つめる。手ぬぐいを握る小さな拳がぶるぶると震えた。
これが答えだ。999敗目。
ややあってからゾロは顔を上げ、師に尋ねた。
「くいなは家?」
「そうだよ」
それを聞くと、黙然と出口に向かったゾロの背にコウシロウが声をかけた。
「それ、返しに行くのなら少し待ってなさい」
コウシロウは立ち上がると竹刀を束ね持ち、壁際に向かう。収納箱に竹刀を納めたコウシロウは、仏頂面のゾロに笑いかけた。
「もういい時間だ。どうせ家に寄るなら、晩御飯を食べて行きなさい」


「・・・・なんでコイツまでウチにいんのよ」
大人顔負けの大盛りのご飯を勢いよくかきこんでいるゾロを見て、くいなが顔を顰める。
あ?とあちこちに米粒をつけた顔を上げたゾロは、そこでようやく思い出したように正座をする己の足元に手をやった。
「これ返しにだよ」
僅かに湿り気を残す手ぬぐいをひったくるように奪い返しながら、くいなは口を開く。
「だったら、何でウチでご飯まで食べてんのよ!!」
「先生に誘われたんだんだから、いいじゃねェか!」
そんなことより、とゾロはくいなに挑戦的な目を向ける。
「これ食い終わったら、もう一回勝負だ、いいな!!」
その言葉を聞いたくいなは、涼しい顔でお茶を一口すすると、余裕たっぷりの笑みでゾロを見返した。
「ふうん、今日中に千敗目の大台に乗せたい訳?」
「うるせェ!! 次は絶対俺が勝つ!!!」
はいはい、とあしらう様に応じたくいなに憤慨するゾロを見て、コウシロウは声を上げて笑った。

夕餉の膳を米粒一つ残さずきれいに平らげた後、子供達は、二人先を争うように道場へと向かう。
「二人とも、終わったら戻っておいで。風呂を沸かしておこう」
振り向いたゾロに、コウシロウはにこりと微笑む。
「一緒に入ろうか? ゾロ」
おう、とゾロは弾んだ声を上げた。ゾロは人の話をあまりよく聞かない子供だったが、コウシロウだけは別だった。古くから伝わる様々な剣の流派について、或いは、刀がどのようにして作られているかについて、柔らかな声音で紡がれる師の話を聞くのは大好きだった。
そんな二人を見て、くいながむくれたように口を尖らせる。
「もう! パパは本当にゾロに甘いんだから!!」
「ん? なら、お前も一緒に入るか? くいな」
それは、拗ねた娘の表情を見たコウシロウが何気なく放った一言だった。
だが、それを聞いたくいなの顔がみるみるうちに赤くなる。
「そんなことする訳ないでしょ!! パパの馬鹿っ!!!」
男二人を残して、くいなは足音も荒く一人道場へと向かう。
それは、コウシロウに我が子が一人の女になろうとしていることを初めて自覚させた出来事だった。
「私も迂闊でしたねェ」
きょとんとした顔でくいなの背を見送ったゾロが、首を傾げながらコウシロウを見上げる。
「風呂ぐらいで怒るなんて変なヤツ」
全くもって無邪気な意見を口にしたゾロの頭を、コウシロウはポンポンと撫ぜた。
「もう少し大きくなったら、君にも分かるだろうね」
そう言って、コウシロウはゾロの背を押した。
「さぁ、行っておいで。早くしないとまたくいなを怒らせるよ」

風呂の用意を済ませたコウシロウが道場へと足を向けると、近づくにつれ、竹刀のぶつかり合う小気味の良い音が聞こえてくる。
二本の竹刀を巧みに組み合わせ、見事な連撃を放つゾロと、流れるような動きでその間隙をを突くくいな。
互いに打てば返すその様は、コウシロウに刀匠の槌打ちを思わせた。
刀身を数え切れぬほど叩き、余分なものを削ぎ落としていく。そうして刀はより純粋でより強靭なものへと成長していくのだ。
コウシロウは目の前でいつ終わるとも知れぬ打ち合いを続ける子供達を見つめ、静かに微笑む。
幾度倒されても、決して剣を振ることを諦めない少年。
時が経てば、いずれ必ずや奇跡のような刀が出来ることだろう。

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