あいうえお44題
急遽チェックインした宿の、清潔ではあるが、やや狭い洗面所でサンジは顔を洗った。
顔を上げれば、鏡には金の前髪からぽたぽたと雫を落とす男が映っている。
唯一、腰に巻いていたバスタオルを剥ぎ取ると、ちょっと情けない格好で顔を拭き、またそのバスタオルを腰に巻いた。
壁にはいつものスーツとシャツが干してある。手を伸ばしてみれば、それにはまだちょっと着るには躊躇われるくらいの湿り気が残っていた。隣に干した服も似たような状態だろう。
サンジは短く息を吐き、そっと部屋に戻った。
部屋に備え付けの簡易調理器で湯を沸かし、コーヒーを淹れる。紅茶を所望されてもいいようにカップに湯を張っておく。
その作業を終えてしまうと、手持ち無沙汰になった指は、自然と煙草を求めて動いた。
いつものように煙草を咥えたサンジだったが、その先端に火を灯すことはなかった。
ベッドサイドの椅子に腰を下ろすと、唇で挟んだ煙草を弄びながら、じっと一点を見つめた。
ベッドの中で、ころりと寝返りをうつ身体。
真白な枕に鮮やかなオレンジの髪が散った。
アイボリーのカーテン越しに温かな陽射しが射し込む。その光が瞼に映ったか、ナミは一度強く目を瞑り、それからその目をゆっくりと開いた。
起きぬけの、まるで子供のような表情が愛らしい。
左手で眠い目を擦り、ようやく開いたナミの瞳が、傍らでにっこりと微笑む半裸の男を捉えた。
その笑みにつられるように、穏かな表情を見せたナミの瞳がみるみるうちに見開かれる。がばりと身を起こし、ナミは呆然とした様子で呟いた。
「・・・・・・うそ」
ログが溜まるまでの契約で借りていた宿とは違う、見覚えのない部屋だった。
ここに至るまでの記憶を辿ろうと、働かせた頭が鈍く痛んだ。一端で発した痛みがあちこちに反射して広がっていく。
久しく感じたことのない、それは二日酔いの症状だった。
こめかみを指で押さえながら、ナミは何とか昨夜のことを思い返そうとした。
長い航海の果てに辿り着いた春島。この島特有のものだという、濃いピンクの桜の花びらが街中に舞う浮かれた島だった。
ログが溜まるまで五日。島の雰囲気に誘われるように浮き立つ心で、サンジと出かけたのは丁度中日のことだった。
さりげなく差し出された腕に、苦笑しながらも手を預けてあちこちと見て回った。華やいだブティックに入れば、試着室から出る度に、サンジは饒舌な店員も舌を巻くほどの勢いで褒めちぎった。
そして、夜。
店構えと、その中で働く店員の様子を観察し、サンジがまぁ合格といった顔を見せた店で食事をし、月と桜の眺めが素晴らしいテラスでグラスを鳴らした。
ハイボールなんていつもなら飲まないのに。
ウイスキーなら、ストレートかロックだ。炭酸割りなんて邪道だと、ナミがそう決め付けるのは何故かハイボールだけは悪酔いするからだった。
それを(恐らくは)浴びるほど飲んでしまったのは、陽気とサンジの所為だ。
サンジが自ら頼んだハイボールに、別に頼んでいたフルーツの中からオレンジを取り出し、果汁を絞り入れた。流れるような手つきでマドラーを回せば、背の高いグラスの中身は氷のぶつかる涼しげな音と共にその色を変えた。
「ナミさんの髪の色とお揃い」
そう言って笑いながら掲げたグラスを取り上げると、グラスの中で細かく泡が弾けるたびにオレンジが香り立つ。一口飲んで、すっかり気に入ってしまったのを覚えている。
で、この有様か。
こめかみを押さえたまま動かないナミに向かって、サンジは笑顔のまま口を開いた。
「ちょっと待ってて」
そう言って、サンジは立ち上がるとナミの視界から姿を消す。
ナミは小さく溜息をついて、布団の中で立てた膝に沈めるようにして額をつけた。
ここって一泊いくらだろう。損しちゃったな。
敢えて思考を別な方向に持っていこうとしたが、その目論見は成功しなかった。
現実はすぐに足音と共に近づいてきた。
カチャリと陶器が触れ合う音がして、あたりに香ばしい匂いが立ち込める。
「コーヒーどうぞ、ナミさん」
船に居る時と全く調子でサンジが言う。違いは、声の持ち主が服を着ていないというその一点だけだ。
「紅茶がよかったら、すぐ用意できるけど?」
「・・・・いい。コーヒーもらうわ」
腹を括ったようにナミは起き上がると、湯気を立てるカップの乗った皿を受け取る。
サンジは再び傍らの椅子に腰を下ろし、コーヒーを飲むナミの姿を見つめた。
先ほど見せた無防備な寝顔とは一転、薄手のバスローブは寝乱れ、一方の肩がはだけ、胸元は大きく開いている。コーヒーを口にする度に白い喉元が上下する。
今すぐにでも、ベッドに押し倒してしまいたくなるほど、それは煽情的な眺めであった。
「服、乾くまでまだちょっとかかりそうだな」
空になったコーヒーカップを受け取りながらサンジは言う。
「服? 雨でも降ったっけ? 昨日」
「非常に、局地的に」
きょとんと見返すナミを見て、サンジは可笑しそうに説明した。
「ここについて早々、"シャワー浴びる"って、服着たまま風呂場に突入したレディーと、それを止めようとしたお供の上にどしゃぶり」
「・・・・・・・・・・」
返す言葉の見つからないナミの傍を、サンジは肩を震わせながら、カップを下げる為に離れた。
ナミは己の姿を見下ろす。身に着けているのはバスローブ一枚。
全く、記憶になかった。シャワーの話も、勿論、その後のことも。
寝てしまったんだろうか、サンジと。
身体中の感覚を総動員して、何がしかの痕跡を探そうとしたが、抜けきらない酔いに邪魔をされ、何の確証も得ることができなかった。
戻ってきたサンジにむかって、ナミは口を開きかけ、だが言葉を発する前にその口は閉じられた。
カタリと椅子が音をたてた。
ナミと視線の高さを同じくしたサンジが、低く静かな問いを投げかけた。
「・・・・・後悔、してる?」
「後悔なんて――」
ナミは恨みがましい目でサンジを見上げた。
「してないから困ってるんじゃない」
言葉どおりに困ったように顔をほころばせたナミをじっと見つめた後、サンジは大きく息を吐くと、椅子の上で崩れるように身体の力を抜いた。
「よォかったァ」
サンジの顔に安堵の笑みが浮かぶ。
「だったら昨日、我慢しねェで手ェだしゃよかった」
その言葉に、ナミがさっと顔色を変えた。
「ちょっと、それって!!?」
「酔ってるレディに悪さできませんって」
引っかけられた!
怒りと気恥ずかしさで、顔を赤らめたナミがサンジを睨む。
「・・・・・卑怯者っ!!」
「ナミさんの本音と引き換えなら、その言葉甘んじて受けましょう」
芝居じみた、痛みを堪えるような顔でサンジはしれっと応じる。昨夜のことに思いを馳せる。
それは、濡れた服を着替えさせている時のこと。しな垂れかかる柔らかな身体と、甘い囁き。
好きよ。サンジ君、大好き。
夢見るような笑みと共に与えられる罪深い言葉。酔っているのだと分かっていても、信じて溺れてしまいたかった。
ベッドで安らかな寝息をたてるナミを見つめながら、思わず伸ばした右手を左手が何度も止めた。
持て余す切なさと欲望が限界を越えると、風呂場に飛び込んだ。
着替えのバスローブを身につけたまま、水のシャワーを浴びて頭を冷やし、部屋に戻った。
それでも、どれ程苦しくても、傍を離れることはできなかった。
甘い痛みに苛まれ続けた夜が明け、サイドテーブルに乗った電伝虫が、チェックアウトの時間を伝えるべく鳴った。
サンジが伸ばした手を制し、ナミが受話器をあげる。
「ここ、もう一泊ってできる?」
今度はサンジが目を剥く番だった。ややあって、ナミがありがとうと笑んで受話器を置いた。
驚いた顔で見つめてくるサンジに、ナミは小首を傾げてみせた。
「明日の朝は紅茶を飲ませてくれる?」
我に返ったサンジは、馬鹿丁寧に一礼して応じる。
「飛びきりのを約束しますよ」
くしゃくしゃに笑いながら、サンジは己に伸ばされた両手にその身を預けた。
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