あいうえお44題


  る : 涙雨の午後 <ゾロ+コウシロウ> Date:  



訃報を聞いた。死に顔を見た。まるでただ眠っているだけのような静かな顔を。
驚きから醒めた後、やってきたのは怒りだった。
くいなに対する。自分に対する。果たされることのなくなった約束に対する。死という理不尽な力に対する。この世のありとあらゆるものに対する強烈な怒りだった。

竹刀で庭石を打った。
赦せない赦せない赦せない何もかも赦せない。
竹刀の先が潰れるほどに打ち、それにも構わずに振り上げた竹刀は、だが、振り下ろされることなく止まった。
「先生・・・・・」

竹刀の先を掴んだ手は師匠のものだった。ゾロの肩から力が抜けたのを見て、コウシロウは静かにその手を離す。力を失った竹刀の先が地面にぶつかり小さく跳ねた。
ゾロの手は柄を握り締めたままで固まってしまったかのように動かない。コウシロウはその手で愛弟子の小さな手を包み、それから一本一本丁寧に指を開いてやる。
まめが破れ、その手のひらには血が滲んでいる。俯いたままの緑色の頭に軽く手を添え、コウシロウはゾロを屋内に上げた。

「座っていなさい。今、薬箱を持ってくるから」
ゾロを座布団に座らせると、そう言い残してコウシロウは部屋を後にした。
その後姿が見えなくなると、ゾロは身体を傾ける。そのままの勢いで床に転がり、横になったまま裏庭を見るでもなく眺めた。
手のひらが痺れるように痛んだ。そこには未だに石を叩き続けた感触が残っている。
庭に打ち捨てられたように竹刀が転がっている。ゾロは目を瞑った。今にきっと声が聞こえる。
「ちゃんと片付けなさいっていつも言ってるでしょ! ゾロ!!」と。
けれど、いくら待っても声は聞こえてこなかった。
じんじんと痛む手のひらと線香の匂い。それが現実だった。
くいなはもう戻ってこない。どこにも居ない。この世のどこにも。そのことを認めた瞬間、ゾロの胸にポカリと穴が開いた。ゾロは自分の胸へそろそろと手を伸ばす。ぺたぺたと胸を触る。穴はどこにも開いていない。けれど、胸から背中に開いた穴の冷たさを、そこに吹き込む痛いほどの風をゾロは確かに感じていた。

恐怖にも似た喪失感に、強く強く瞑ったゾロの瞼から、涙が零れ落ちた。
どうしろというのか。こんな穴を抱えて。
いつまでも止まらない涙は、座布団に大きな染みを作った。


「ゾロ・・・」
コウシロウの声にゾロは慌てて居住まいを正す。鼻水を啜りながら、何度目を拭っても涙は止まらなかった。
涙に濡れたその手をコウシロウは取り、自らの前に広げる。消毒液に浸した綿で手のひらに滲む血を拭った。
「痛むかい?」
静かな問いかけに、ゾロは大きく首を振った。こんな痛みなら何でもない。
ここが、と言ってゾロは握り締めた左の拳で胸を叩いた。
「痛ェんだよ、先生! 何だよこれ!!」
「それが失くすということだよ。ゾロ」
師の声は淡々として、それだけにゾロの心に沁みた。
「人はみんな何かを失くしながら生きてる・・・・けど、失くしたからといって何もかもが無かったことになる訳じゃない。そこには必ず残されるものがあると私は思うよ」
残されるもの。そんなものあるだろうか。くいなを失くして、交わした約束も失くして。

託されたもの。
願い。約束。
自分にできること――――

包帯を巻き終えると、薬箱を右手にコウシロウは立ち上がった。
ゾロは俯いたまま、両手で強くズボンを握り締める。
「先生っ!! あいつの刀おれにくれよ!!」


白鞘の刀はゾロの両手にずしりと重い。
けれどもその重さと新たな約束は、これからを生きるゾロにとって、胸に開いた穴に吹き込む風を遮るものとなった。

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