あいうえお44題
け : 消し去ってしまいたい何か <ゾロナミ> |
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目が合った。
紅い唇が微かに笑みの形をつくる。
くるりと背を向けた女の後を俺は追った。
平時には立ち入る者もない倉庫の扉が細く開いている。押し開いた扉の奥で人影が揺れた。
錨綱に染み込んだ潮と武具に染み込んだ油の殺伐とした匂いのする部屋。その中で、女の放つ香りは堪らなく甘い。
女がオレンジの髪をかきあげる。その細い腕を掴み、捻り上げるようにして壁に押し付ける。シャツの裾を掴めば、女はその手を払いのけ、自らシャツを脱ぎ捨てると俺の首を引き寄せた。
水の中で燃える炎というものがあれば、まさにそれだろう。
女の瞳の中で、何かが濡れながら揺らめきだす。
その何かを引きずり出したい思いで唇を吸えば、それを阻むかのように女が舌を絡めてくる。
投げ出すように身体を与えながら、心一つよこそうとしない。
こんな女は他に知らない。
だからなのか。
その目を潰してしまいたくなる。
俺ではない誰かを見せぬように。
その口を塞いでしまいたくなる。
押し殺したあの声を誰にも聞かせぬように。
その身体全てを飲み込んでしまいたくなる。
他の誰にも触れさせぬように。
この俺が、と大声で笑いたくなる。
消しようのない、まるで狂気としか言いようのないこの思いに、他の名は決してつけない。
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