*については裏書庫に続きがあります。
表書庫
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Say Rain* |
Date: 2003-09-26 (Fri) |
夜の海。朧月に凪いだ風。
見張り台に座り込んだ俺はさしてやることもないまま、煙草を燻らせていた。
立ち上る煙に月の姿が一層朧になっていく様をただぼんやりと見ていた。
―・・・・・声?―
耳の端に高い声が引っかかったような気がして、俺は煙を吐き出すと耳に神経を集中
させる。
聞こえるのは船が波を割る音だけ。
―気の所為か―
俺は欠伸を一つして、もう一度煙を肺に溜める。
と。
―気の所為じゃねぇな―
やはり、途切れ途切れに微かな声が聞こえてくる。
―・・・・歌...か?―
こんな声を出すのは、うちのクルーには一人しかいねぇ。
ましてや、歌を謳うなんてのは...
―・・・あぁ、あいつも歌ってたなぁ―
ココヤシ村で一晩中歌っていたウソップの姿が脳裏に浮かんだが、一瞬で消えた。
―まぁ、あいつのコトはどうでもいいんだ―
俺は煙草を咥えたまま梯子を降りる。
麗しの歌姫のご尊顔を拝しに。
切れ切れに細く響く声は、彼女の元へ容易に俺を導いた。
船の最後尾に佇む彼女。
無意識に口ずさんでいるのだろう。所々でメロディーが途切れる。
それでも、彼女の謳うその歌は、とても綺麗で。
それ以上に綺麗なのは、謳っている彼女。
月に照らされた肢体は朧に輝き。
鳶色の瞳は、この世の何も映していないようで。
彼女の体はこの船の上にあるが、心はどこか別の所にあるんだろう。
そんな想像が容易につく。
身動き一つしない彼女。
よくできた人形だろ、何て言われたら俺は信じちまうだろう。
人形じゃないことを証明するのは、微かに動く形の良い唇。
それと、何とも言えない寂しげな雰囲気。
―歌が終わっちまったら彼女は消えちまうんじゃないか―
自分でも馬鹿馬鹿しい考えだとは思うんだが、どうしても俺はその場を動けなかった。
沈黙したまま彼女を見つめる俺と清らかなる旋律。
そして、それを破ったのは、間抜けにも俺自身だった。
「っうわっ ! っちぃっ !!」
時間の経過と共に短くなった煙草が、俺の指を焼き、思わず俺は小さな叫び声をあげ
ちまった。
その瞬間にメロディーはぴたりと止まり、代わりに少し驚いたような彼女の声が響く。
「...サンジ、君...」
弾かれたように振り返る彼女。一瞬見せた表情はとても虚ろなもので、俺は何故か
罪悪感を感じた。
侵すべからざるものに不用意にも触れてしまった、そんな気分だ。
―もう、逃げらんねぇな―
そんなことを考えた自分に愕然とする。
―逃げる? 俺が? 彼女から?―
溜息を一つついて、疑問符だらけの頭の中を整理しようとしたが、全く上手くいかず
とりあえず、俺は足元に落ちた煙草を踏みつけた。
それで、俺は何とか微笑みを繕うと彼女に話しかけた。
「謳ってるナミさんが素敵すぎて...思わず聞き惚れちまってましたよ」
「やだなぁ...いつからいたの?」
彼女の顔に笑みが浮かぶ。
しかし、それは今俺が作ったのと同種の笑みだ。
「・・そうですね..右手に火傷する位の間かな」
俺は右手を開いて彼女の目の前に翳す。
何て事だ、彼女のその表情が隠れて俺は安堵しちまってる。
「・・馬鹿ね、大丈夫?」
そんな俺の気持ちなど知る由も無いであろう彼女は俺の手を取ると、自分のもとへ
引き寄せる。
今まで感じたことのない、手の冷たさに俺はとてつもない違和感を感じる。
俺の知ってるこの人は、こんなに冷たい手はしてない。
俺は動揺する心を押しこめるように、努めて淡々と会話を進める。
「・・・歌...」
「・・・ん?」
彼女は、ああ、というような顔をする。
「私の村に古くからある歌よ」
―幸い雨は去り
あなたは陸へ帰った
僅かな救いにはベルを
清廉なる御霊には鐘をならそう
僻地での艱難(かんなん)を見せぬ
あなたの為に
何時まで語り継がれるだろう
冬の風が戸口をゆすり
子供達がせがむとき
穏やかなる静けさがこの悲話を覆い
沈黙が語り手の目を覆う
それでも忘れることはない
私だけはあなたのことを―
敢えて感情を殺したように、彼女はすらすらとそらんじる。
「ほら、村では私、敵方に身を置いてた訳でしょ。当然村人は嫌うわよね、私のこと」
一つ息をつく。
「まぁ、それはみんな演技で、私も一杯食わされてたんだけど、中にね、1人だけ
全然態度を変えなかった人がいたの。
私より少し年上だったけど、とても穏やかで、歌の上手な人だったわ」
溜息。
「その人が、私が帰ってくる度に謳ってくれた曲なの」
長い溜息。そして沈黙。
―これ以上聞くな―
沈黙の中、そんな声が聞こえた気がしたが、俺は自分の言葉をどうしてか止められない。
「その男は今どこに?」
「・・・今?」
彼女の微笑みはますます透明になり。
「会おうと思えば、今すぐにでも...そうでなければ、あと6〜70年かかるんじゃ
ないかしら...」
彼女の言葉はこれ以上ないと言う位、俺を打ちのめした。
あの歌に関る人物が、もうこの世にいない、ということにではない。
―彼女は俺の言葉を否定しなかった―
この人に、あんな寂しげな顔をさせる男が存在した、ということにだ。
「ナミさんは...」
―おかしいぜ、どうしちまったんだ、俺は―
口の端が引きつってるのが自分でも分かる。
「そいつを...」
―聞いてどうすんだよ、今更そんなコトをよ―
手がやけに冷える。火傷の個所だけが、じわじわと蠢いている気がする。
「・・・愛していたんですか?」
―違う...凍えているのは俺の心だ―
―凍えているくせに、一点だけがじりじりと燻っている―
嫉妬
―言葉にしてしまえば、それは何て簡単なんだろう―
その言葉も、その意味も、知っているというのに。
俺は、その先の言葉を見つけることができずに。
俺は、これからどう動けばよいかも分からないままに。
その場に立ちつくしていた。
沈黙を破ったのは、雨か彼女の涙か。
ポツリ、ポツリと降りだした雨と、彼女の頬の水跡。
俺はそれは、彼女の涙だと思った。
ただ、雨が頬にあたっただけかも知れない。
でも、俺は何故か頑なに涙だと思った。それは恐らく正しかったと今でも思う。
―消してくれよ、この人の涙を―
俺は夜の雨に願った。
―他の男を想って流す涙をよ―
俺の願いを聞き届けるように強くなる雨足。
「..サンジ君..私―」
雨に濡れた顔をあげて彼女は俺に話しかける。
雨は彼女の涙を消してくれたが、声は消せない。
俺は彼女の言葉の続きを怖れた。
それが肯定であれ、否定であれ、やはり聞くべきではなかったんだ。
その時俺は、無茶苦茶に動揺してたんだろう。
彼女の腕を掴んだことも、彼女を抱き寄せたことも覚えていない。
ただ、気がつくと、彼女の唇を奪っていた。
その時俺の頭の中にあったのは切実なる願い。
俺は、いやに冴えた気持ちで降りしきる雨に訴えていた。
―消して欲しいのは、彼女の記憶と―
息もさせてやらねぇ位の勢いで俺は彼女の唇を奪い続ける。
―一番は俺のこの醜い心なんです―
降りしきる雨。ただ、降りしきる...
俺の願いは叶うのか....それはまだ分からない....
終
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