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  灑涙雨 Date: 2003-09-26 (Fri) 


霧雨が素肌の上に薄いヴェールを張っていく。

―今年は雨...か―
ノジコのヤツちゃんとお祈りしなかったわね、等と考えたところで苦笑してしまった。
船上での些事に忙殺されて、私がそのことを思い出したのはたった今なのだ。

―サボったのは、私の方か―

7月7日。
離れ離れの男女が向かえる年に一度限りの逢瀬の時。
あんまりにも、互いに好きになりすぎて大事な仕事を疎かにしたことへの罰として
引き裂かれた2人。
会えるのは、その日だけ。
しかし、前日に雨が降ればそれも叶わなくなるのだと。
そんな話を寝物語として聞いたのはいつだったろう。
小さい私達は、そんなコトで1年に1回しか会えなくするなんて、ナンテヒドイヤツが
いたんだろう、と憤慨したものだ。
それから、ふと自分達の日常を考えて、しばらくの間は2人して真面目にベルメール
さんの手伝いをしていた。
自分達にもそんな罰があたったらたまらない、と。
それで私達はその日が近づくとやたらと空を見上げて「晴れますように」と祈りを捧げたのだ。
「ようやく会えた2人は、あんまりうれしいから他の人のお願い事も叶えてくれるのよ」
最後にそう付け加えたベルメールさんの言葉による邪な想いも少しはあったが。

あぁ、あの頃は。
物心がついてその話を聞いてからの「お願い事」といったら本に地図に海図、それ位だった。
真に切望するものができたのは、私達の語り部が消えてしまってからだ。
そして、その時から私は「お願い事」を止めてしまったのだ。
囚われの日々は、恨みと憎しみと悔しさと、そしてほんの少しの希望の日々で。
私は、そのささやかな希望を糧に必死で生きてきた。
その中に。
1人の男の子がいたのだ。
私より年上で、ノジコより年下の生粋の島っ子だった。
畑の手伝いをしていると、こっそりと私達を遊びに誘いに来たものだ。
目ざといベルメールさんは、そんな様子のあの子を見つけると、よくハッパをかけていた。
「あんたっ、うちの娘が欲しいんだったら、堂々とっ ! もっと男を磨いてからきなっ !!」
その度にその子は真っ赤になって帰っていった。
それでも、脱出に成功した時には(今にして思えばベルメールさんはきっと見逃してくれていたのだろう)時間を忘れて遊んだ。
走って、泳いで、叫んで、笑って、歌って....
歌の上手な子だったのだ。

楽しい昼は、何故太陽はあんなに早く沈んでしまうのだろう。
辛い夜には、なかなか昇って来ないというのに。

敵の手先と成り果てた私に、村人の視線が冷たいものへと変わっても(それが演技だったということを知ったのはつい最近だ)その子だけは変わらなかった。
一緒になってはしゃぐようなコトはもうなかったけど、私が家に戻れた時には静かにやって来て歌ってくれた。
非難も、お説教も何も言わず、ただ私が寝つくまで。

約束の金を稼ぎに外洋に出るようになった私は、なかなか家に戻れなくなっていた。
3ヶ月に一度から、半年に一度、1年に....
それでも、帰るたびにその歌は私を出迎えてくれた。
優しく、優しく。

死ぬほど辛い時に私を支えてくれたのは、ベルメールさんの遺言とその歌。
ベルメールさんの言葉は、私を励ましてくれた。
彼の歌は私を癒してくれた。
その2つがいつも私を包んでくれていた。


7月7日。
何となく、たまにしか会えない自分達をその2人になぞらえていたのかも知れない。
だから私は「その日」前にすると、彼の歌を口ずさんでささやかな祈りを捧げていた。
だからといって「お願い事」をしようとは思わなかったが。


そしてそれは、彼の歌声が絶えるまで続いた。
何度目かの航海を終えて戻ってきた時にノジコから聞かされた知らせ。
魚人同士のいざこざに巻き込まれたのだという。

私は泣かなかった。
代わりにノジコの肩が震えていたから。
そして自分でたてた誓いを守るために、泣かなかった。
そして、その時から私は「祈ること」も止めた。
歌が、聞こえなくなったから....



7月7日。
自由の身になってから初めての「その日」を明日に控えて。
晴れていれば天を分かつ大きな川が見えるはずなのに。
空を見上げて嘆息する。
それで、この曇天が晴れる訳ではないとは分かっていたが。


顔をあげると、目尻に溜まっていた霧雨が雫となって頬を伝う。
あの時流せなかった涙の代わりをするかのように。

―私は、あんたのことが好きだったよ―
自然とそう思えた。
そして、そう思ったことでようやく納得できた。
彼を失ってあんなにも、心に虚ろな部分ができたのは。
その歌声すら聞こえなくなってしまったのは。
「祈ること」をも止めてしまったのは。
私が、彼のことを凄く好きだったからなんだ。

―私は、あんたのことが好きだったよ―
頬を伝う雫が温かくなっていたことに、私はしばらく気がつかなかった。
涙が溢れるにまかせて、私は空を見上げ続けた。
ようやく流せた涙が、私の心の奥底に封じ込められた彼を解放したのだろうか。
不意に懐かしいメロディーが蘇る。


胸の内に穿たれた傷穴を埋めて尚、溢れる旋律。
そして私は数年ぶりに彼の歌声に包まれて、泣いた。

―ようやく、会えたね―
灑涙雨の降るこの日に。
天上の2人の代わりに、私達。


「おーいっ !!」

聞きなれたその声に、私は急に現実に引き戻された。
声の主は、タオルを片手に私を招いている。すぶ濡れになる前に早く戻るように、と。
私は少し慌てて、自分の顔を拭う。
そして、笑って手を振ってみせてからもう一度空を見上げた。


―次からは私が貴方達の願いを叶えてあげるね―
出会えた喜びで他人の願いまで叶えてしまうという2人。
その気持ちが今なら分かる。
―きっと、今は私の方が幸せだから―
昔恋した人は、これからはいつも私を包んでくれる。
優しい歌となって。

そして....
いつもは大いなる川に隔てられている彼方の2人に比べたら。
私は、自分を招いている男を見つめる。

私はいつでも一緒にいられるから。
地上の海を分かつ、この航路の中を。


この人と...ずっと....



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