いつも言ってるだろ、
早く大人になりたいんだって
対峙―そんな言葉がぴったり当てはまるような状況だった。
本日の業務を全て終えたレストラン・バラティエに灯る明かりはほんの僅かである。
ここ最近の天候不順にも関らず店は常にも増して盛況だ。
よって従業員達の殆どは、明日に備え或いは今日の疲れの為に早々に床についている。
ご多分に洩れず、サンジも安らかな夢の中にいた。
内外を問わずの荒くれ者共に混ざっても一歩も退くことのない、気骨溢れるこの少年も寝顔は年相応で、まだあどけなさを残していた。
バラティエに勤める者達は数名で一つの部屋を共有している。
但し、例外はある。
オーナーであるゼフとサンジだ。
サンジは皆と一緒がいいと言い張ったのだが、ゼフは首を縦には振らなかった。
野郎共の部屋には、不要とは言わないが教育上よろしくないモノが多々転がっているからだ。
ゼフは放任主義のようでいて、その実何かと気を使っているのである。
そんな訳でサンジは一人悠々と眠っている。
すーすーと規則正しい寝息。
穏かな寝顔。
それが突然変調する。
閉じられたままの瞼がぴくぴくと痙攣している。
その度に眉間には皺が寄せられ、
心なしか呼吸も乱れ、何やら息苦しそうな様子である。
・・・・と、突然サンジの目が見開かれ、仰向けのまま肩で大きく息をついている。
一度眠りについたら仕込みの時間まではまず目を覚まさない筈なのに。
虫の知らせでも感じたのだろうか。
サンジ自身も何故突然目が覚めたのか分からないようで、瞬きもせず呆然と天井を見つめている。
―何だ、この感じ―
気がつけば額には冷汗、二の腕には鳥肌。
サンジは一旦強く目を瞑り、寝返りをうちかけて・・・・・・止まった。
一瞬にして顔色を失う。
対峙―
サンジの目の前にいたのは、一匹の蛞蝓(なめくじ) だった。
まさに虫の知らせ、である。
さて、サンジ少年は蛞蝓が嫌いである。
向こうもきっと自分のことが嫌いだろうとサンジは思っている。望むところだ。
何時のことだったか。その出来事は風呂場で起こった。
子供の無邪気さで風呂場をかけ回るサンジ。
そして浴槽の縁から勢いよく飛び降りた瞬間だった。
ペチっ!!
足の裏の柔らかい感触。
ん? とサンジは何も考えず足元に手をやり、ソレを掴むと目の前にかざした。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
それが衝撃の出会いであった。
以来サンジは蛞蝓が嫌いである。言ってみればトラウマというやつだ。
海の上で暮らすようになってからはさほどお目にかかる事はないのだが、それでも奴等は野菜や果物にひっついて厨房に現れることがある。
そんな時、サンジは悲鳴を堪え、鬼のような形相で鬼のように塩をお見舞いする。
勿体ないことするんじゃねぇ、と後でどつかれても構わない。
それ位嫌いなのだ。
ソレが、
今、
目の前に。
反射的に大きく開いた口をサンジは両手で塞ぐ。
間一髪、悲鳴を飲み込み横たわったままじわりと後退する。
にじり寄る蛞蝓。
―塩! 塩! 塩!!―
慌ててあたりを見回すが、そんなものは当然なく。
つまんで捨てちまえとサンジは恐る恐る手を伸ばし―
―エスカルゴ、エスカルゴだと思え!―
ダメだ、殻がない!!
―塩辛、塩辛だと思え!―
塩辛が動くかよ!!
自分を誤魔化すことに失敗したサンジは、結局爪先立ちで部屋を逃げ出した。
薄暗い廊下に出て、サンジは次々と部屋のドアを叩いてみるが応答はない。
絶望的な気持ちで、ガックリと項垂れるサンジ。
―どこに行こう。
厨房・・・・店・・・・ダメだ。ここより危険だ―
力なく顔をあげるその瞳に一筋の光明が。
ドアの隙間より床に灯りの洩れている部屋がある。
―助かった―
安堵に顔をほころばせて、サンジはドアへと駆け寄る。
やはり中から何やら話し声が聞こえる。
ドンドンドン!!
サンジがノックした瞬間、しんと部屋が静まり返る。
「俺、俺! サンジ!!」
慌ただしく名を告げると、何度かの靴音の後にやや乱暴にドアが開く。
サンジの前に顔を顰めた堂々たる体躯の男が立ちはだかる。
その足の隙間から中を見ると、部屋の男達は皆起きているようで、これから酒盛りでもするのか床の真ん中に集まって座り込んでいる。
―うるさくても酒臭くてもアレよりゃマシだ―
ひょいと部屋の中に入ろうとしたサンジの体が宙に浮く。
「――――!!?」
猫よろしく首根っこを掴まれ持ち上げられたのだ。
じたばたじたばた。
サンジは両手両足でもがいてみるが、状況は変わらない。
その体が更に上に持ち上げられる。
ぴたり。
もがいていた手足の動きが止まる。
サンジの目の前には男の顔。
その顰めっ面指数は益々上がっている。
「・・・・・・何すんだよ」
精一杯の虚勢を張って、サンジは声低く凄んでみせる。
その姿はどう見ても、親猫にたしなめられている子猫なのだが。
「お前こそ何しようとしてんだ」
男は目を細めながら言いかえす。
「部屋に入れろよ!」
「何でだよ」
当然と言えば当然の切りかえしにサンジはグッと言葉を詰まらせる。
「・・・・・・・・・眠れねぇんだよ」
確かにそれは嘘ではないのだが。
その言葉に男はニヤリと笑う。
「そうか・・・・それじゃ仕方ねえな・・・・・・・」
サンジの体がゆっくりと下ろされる。
―やった!!―
と、内心で万歳をしかけたその瞬間。
再びサンジは上昇する。
「・・・・・・何て言うと思うか! ガキのクセに眠れねぇなんて生意気言いやがって!
ションベンでもしてこい! そうすりゃ眠れるぜ」
ひょい、と廊下に投げ出されるサンジ。
何とか着地し、きっ、と男を睨む。
「俺達はこれから大事な大人の話をするんだ、ほら帰れ!!」
サンジに枕を投げつけると、しっしっ、と追い返すように男は手を振る。
―畜生、こうなりゃ実力行使だ―
突入あるのみ! サンジは部屋までの距離を目で測る。
3・2・1、GO!!
サンジがダッシュした瞬間、躊躇いもなくドアは閉められる。
ドカーン!!
ドアに熱烈なるキスをお見舞いした直後、サンジの頭の上で無情にも鍵がかけられる音が響いた。
中から聞こえるのは、男達の声。
「・・・・・何やってんだ、あいつ」
「いいから放っとけよ、時間が惜しい」
「そうだ、そうだ! 今回の出物は凄ぇぞ! 南の海の元グラビア・クイーンだっ!!」
「ぬおぉぉーーー!!」
―・・・・・・・・何が大人の大事な話だ―
くらくらする頭を抱えながらサンジは起き上がる。
―ただのエロ本の話じゃねぇか、畜生俺にも見せろ―
少々強く頭を打ったらしい。
問題点が変わっている。
―そうじゃねぇ―
サンジは二、三度頭を振ってから自室の方を振り返る。
残るは―
大きく溜息をついた。
実はもう一つ灯りの付いている部屋はあるのだ。
しかも、自室のまん前である。
気づかなかった訳ではない。
気づかない振りをしていたのだ。気づきたくなかった。
傍らに転がる枕を何とはなしに拾い上げてから、サンジは歩き出した。
究極の選択。
サンジは廊下の真ん中で枕を抱え、座り込んでいた。
右手には開け放たれたままのドア。自室である。
―戻るか・・・・もしかしたら、アレはもういなくなっているかもしれない―
サンジは部屋の中に目をやる。
真暗な部屋。中の様子は見えない。
―いやでも・・・もしかしたら仲間が増えているかも―
一度でもそんなコトを考えると、悪い想像はどこまでも広がる。
ベッドまでの道筋に一列に並ぶアレ。
ベッドを埋め尽くすアレ。
冷汗を浮かべながらサンジは喉を掻き毟る。
―それならいっそ―
サンジは閉じられたままの左のドアを見る。
そこはオーナーの部屋である。
―でも、入って何て言うんだ。また追い出されるのがオチじゃねぇか―
かといって本当のことを言う気にはどうしてもなれなかった。
特にゼフには。
一人前の男だと常日頃豪語している自分。
それが、蛞蝓が怖くて眠れない―なんて口が裂けても言いたくはない。
―クソっ! どうすりゃいいんだ―
どちらとも決めることができず苦悩するサンジの視界の端に何か白いものが映る。
もしかしたらサンジは慕われているのかもしれない。
そこにいたのはサンジの後を追ってでも来たのだろうか、蛞蝓だった。
決断は本能が下した。
「俺はどうしたんだ、って聞いてんだ!」
憮然とした表情で、ゼフは突然の乱入者を問いただす。

Special Thanx illust じょんじょんサマ
サンジはゼフを前に唇を真一文字にして立っている。
枕を抱きしめるその腕に力がこもる。
―言えない、言いたくない―
口惜しい、ただその思いだけがサンジの頭を駆け巡る。
「何とか言え! チビナス!!」
語気を荒くしたゼフの方が次の瞬間、面食らった顔をする。
サンジの瞳から涙が零れたのだ。
飽和したサンジの頭は思考を放棄し、感情に素直になっていた。
叱り飛ばそうが蹴り飛ばそうが涙など見せないサンジが泣いている。
「な、な、な・・・・・」
慌てるゼフとぽろぽろと涙するサンジ。
ゼフも今のサンジをどう扱ってよいか分からず、うろたえている。
それでも、何時までもこうしてはいられない。
とりあえずゼフは小さく溜息をつくと、サンジの肩に手をかける。
涙を落とす度に小刻みに震える肩。
まだまだ子供の小さな肩だ。
口を開けば大人だ、大人だと生意気なコトばかり言っているが。
ゼフは微笑むとサンジを抱き上げる。
軽々と持ち上げられたサンジはすっぽりとゼフの胸におさまった。
時間は優しく流れていく。
泣いているうちに疲れたのだろう。
しゃくりあげつつサンジは、うつらうつらと船を漕ぎ始める。
その口がたどたどしく動く。
「畜生・・・・・・俺・・・は、大人・・・・・・・」
後は寝息と同化して意味をなさない。
寝顔とは対称的な、その負けん気の強さにゼフは思わず声をあげて笑った。
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青空の下順調に航海を続けるゴーイングメリー号にて。
―そうだ、次の日気がついたらクソジジイのベッドの上だったんだ―
火のついていない煙草を咥えながらサンジは回想を終えた。
―がっ!! 何でこんなコトまで思い出してんだ、俺は―
顔の火照りを覚ましにキッチンを出たのに、これでは全く逆効果だ。
―何でこう恥ずかしいことってのは次々と思い出しちまうかね―
顔を赤らめたままサンジは海へと煙草を吐き捨てた。
恥ずかしい思い出の筈なのに、何故かにやけが止まらない。
畜生。この礼は必ずしてやる。待ってろジジイ。
今度会う時は、両手一杯の白い薔薇の花束でも持っていってやる。
そんで皆の前で肩でも腰でも揉んでやる。
どうだ、恥ずかしいだろう・・・・・・・・・・・・なぁ、クソジジイ?