*については裏書庫に続きがあります。
表書庫
■
愛しきものへの杯 2 |
Date: 2003-09-26 (Fri) |
その時突然、義姉の笑顔が脳裏に浮かんだ。
陸地は遥かに遠く、もはや蜃気楼の如く不確かにしか見えない。
海軍の船影も見る見るうちにその数を減らしていく。
間断なく続いていた砲撃音も、今となっては未練がましく散発的に響くだけだ。
どうやらこれ以上の追撃は諦めたようだ。
陸地はもはや見えない。
ましてやそこに立っているだろう一人の少女の姿など。
出航の慌ただしさが一段落すれば、次にやってくるのは抑え難き寂しさだ。
ここにいない仲間への。
後部甲板にナミは一人ぼんやりと立っていた。
他のクルーは忙しく動いている。
海軍に囲まれて叩かれて、船は酷い有様だ。
ビビが国に残ると決めたことで、皆心に何がしかの思いを抱いているのだろうが、現実問題として船は満身創痍なのだからその修繕もしなくてはならない。
もしかしたら皆、体を動かすことで寂しさを紛らわせているのかもしれないとナミは思った。
自分ともう一人を除いては。
出航を宣言した船長は、皆が気づいた時には既に指定席に座っていた。
それから誰にも何も言わず、誰にも何も言わせずに前だけを見ている。
―あいつも相当ビビのことが気に入ってたから―
正反対の方向を向いたままでナミはルフィの心情を想像してみた。
共にあった過去を思っているのか、共にあることのない未来を考えているのか。
どちらもどこか違うような気がした。
いつもなら分かりやすい位に思考と行動が直結している男なのだが、押し黙って身動きもしない、こんな時のルフィの考えは全く読めない。
そこまで考えたところで自分の気持ちの整理もまだついていないことに思い当たり、ナミは苦笑した。
覚悟はしていた。
ビビの旅、それは即ちアラバスタへの帰還の旅だ。
それ以上の航路は元々予定に入ってなどいない。
分かっていた。
あれほどにひたむきに命を賭けたものを、捨てられやしないと。
分かってはいたが、誘わずにはいられない程自分も彼女のことが好きだったのだ。
知らないうちに柵を握る拳に力が込められていた。
ナミは小さな溜息と共に、そっと力を抜いた。
敵として出会い、仲間となって別れた少女。
強い、頑なと言ってもいい程に強い心を。
何もかもを一人でしょい込みかねない危うさを。
人前で泣くコトを潔しとしない、そんな所も。
いつかの自分と重なるような、そんなところが愛しくて仕方がなかった。
共に寝、共に起き、そんな風にして過ごした時間は今にして思えばあっという間だった。
真面目な話も、馬鹿な話もした。
もしも自分に妹がいたら―小さい頃、そんな想像をしたことがあったっけ。
―あんた、こんな感じで私のことを見ていたのかしら―
遥か故郷の姉にナミは何とはなしに問い掛けてみた。
その瞬間、脳裏に閃いた姉は満面の笑みを浮かべていた。
―あぁ、そうだった―
「サンジ君、ちょっとお願いがあるんだけど!」
ウソップ監督下のもと、船底にて修理に勤しんでいる筈の料理人にナミは大声で呼びかける。
と、瞬きをする間もない位の勢いで。
「はーい、ナミさんっ、只今っ」
足元より応えが返ってくる。
「うわぁぁぁぁっ!!」
チョッパーの叫び声が消えるか消えないかの内に、船底近くで何かがぶつかったような大きな物音がする。
直後。
「てめぇ、いきなり手ェ離すんじゃねぇっ、このエロコックっ!!」
「ぐおぉ、何で穴広げてんだよ」
剣豪と現場監督の非難などどこ吹く風でサンジは甲板へと飛び出してくる。
「お呼びで? ナミさん」
いつも以上に上機嫌な口調のサンジ。
それはナミに対する彼なりの労りか、もしかしたら彼自身の寂しさをカモフラージュしたものかもしれない、そうナミは思った。
「ねぇ、私とビビのお酒出して」
サンジに背を向けたままでナミはそんな頼みごとをする。
ナミのその台詞にサンジは不審げな顔を見せる。
だが、その表情は一瞬でかき消えた。
「あとグラスを8人分」
そう続いた言葉にサンジの顔に理解の色が浮かぶ。
「了解!!今すぐに」
サンジは微笑むと軽やかに身を翻し、キッチンへと向かう。
背後から人の気配が消えた頃、ナミはゆっくりと振りかえる。
柵に背をもたれ、ふと空を見上げる。
真白な雲と澄んだ青。
今頃ビビも同じ空を見上げているのかもしれない。
自分が故郷を出たの時もこんな綺麗な青空だった、とナミは思い返した。
ナミは思う。
別れが辛いのは当然だ。
それが親しい者なら尚のこと。
残して行く者も、残り留まる者も抱く寂しさは同等だ。
だから笑うのかもしれない。
先へと進む力を寂しさに食われてしまわないように。
あの時だって笑って別れたではないか。
自分も笑って、ノジコも笑っていた。
海賊に涙の別れなんて似つかわしくないだろう。
だから、それでもこの胸に残る気持ちは今は飲み込んでしまおう。
ナミは空より視線を戻すと真直ぐに歩き始めた。
「皆、ちょっと小休止よー、集合ーっ!!」
ナミは元気よく叫ぶと皆を集める。
船首では、ルフィがその声に気づき、ようやく振り向く。
何だ、どうしたと大声で返事をするその表情はすっかりいつものものに戻っていた。
それから、船底よりゴソゴソと3名が這い出してくる。
それぞれが木屑や埃にまみれてさんさんたる格好だ。
特に酷いのがチョッパーで、ふわふわの毛並みに濛々と埃をまとわらせている姿は捨てられたぬいぐるみのようだ。
ナミはそれを目にして苦笑し、パタパタと体中の埃をはたいてやる。
飛び散った埃にチョッパーはくしゃみを連発し、目をしばたたかせている。
そして最後に、トレーにグラスを、片方の手にボトルを持つサンジがキッチンより現れ、全員集合と相成る。
サンジはまずナミへと丁寧にグラスを差し出し、次に男達へとぞんざいにグラスを渡した。
それぞれの手に透明な液体を湛えるグラスがおさまる。
そしてナミの足元にも同じ状態のグラスが二つ。
「これが私達からの別れの杯よ」
ナミは静かに皆に告げる。
「それから仲間との再会を誓って」
グラス同士が固く澄んだ音をたてた後で、
自らの杯を一息に飲み込むと、ナミはルフィの方へ向き直る。
「また来ましょう、この国に。いつかきっと」
「おう!!」
ニカっと笑う未来の王を暫し見つめた後、ナミはくるりと振り返り、皆に笑って見せた。
あぁ、とそれぞれがそれぞれの顔と口調で賛同の意を表する。
その顔がナミの次の一言で一瞬にして固まる。
「何しろ姫君に10億ベリー貸し付けたままなんだから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!?」
「お、お前・・・諦めたって言ってなかったっけ」
恐る恐るといった風にウソップがナミに尋ねる。
「何言ってんのよ今回貰うのは諦めたってコトよ」
そんなことも分からないのかと呆れ顔でウソップを見つめ、
「あー、利子が楽しみ」
そういってナミはニヤリと笑う。
「それでこそナミさん!」
サンジの賞賛の声はすぐさま笑い声にとって代わられた。
次に会った時のビビの顔が見物だ。
寂しさを駆逐する、その笑いはあっという間にクルーの間に広まっていった。
笑いながらナミはルフィに目配せする。
足元のグラスを手に取ると、ルフィへと手渡す。
まだ酒が入ったままの杯を軽く掲げ、海を指差すナミを見て、ルフィはナミのやらんとすることを察したようだ。
「せーのっ!!」
掛け声と共に投げ出される二つの杯。
日の光を弾き、輝きながら放物線を描く二つの杯。
それらはきっとアラバスタの岸にたどり着く前に壊れてしまうだろう。
それでも、願わくばこの笑い声がビビに届きますように。
そして、さっき泣いていたビビが今は笑っていてくれますように。
―まぁ、あの子のことだから大丈夫か―
杯の行き先を見つめながらナミはそんなことを思った。
海へと飲み込まれる直前に杯は一際大きく輝く。
その光に瞳をやられ、ナミは思わず目を閉じる。
ビビはすぐ傍にいた。
閉じた瞳の中に。
光溢れる瞼の中に。
ビビは笑っていた。
愛する者たちに囲まれてビビはきっとこれから笑って生きていくのだろう。
例えどんなに辛いことが起こっても。
道は違えど、それは自分達と同じ生き方だ。
ナミはその笑顔を心の底から愛しく思い、胸の内でもう一度杯を掲げた。
終
[前頁]
[目次]
[次頁]