少数お題集
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03.それは終わってしまった夢 <ゾロナミ> |
Date: 2009-08-02 |
夜霧が音もなく船を包んでいる。
しっとりと濡れた船尾に佇む人影があった。
身に着けたシャツに霧が染み込んでいくのにも構わず、ナミはじっと夜の海を眺めている。
空と同じ色をした海は緩やかにうねり、見つめていると思わず引き込まれそうになる。
風が吹く。
すっかり湿ってしまったオレンジの髪はなびかず、ただ手にした一枚の紙だけが僅かに震えた。
ナミは静かにその紙を見つめ、それから目を閉じる。
紙を挟む細い指から力が抜ける。
指の間で紙は小刻みに震え、風がさらうままにその手から離れようとした瞬間、ナミは目を開き、同時に指先に力を込める。
海へと吹き飛ぼうとしていた紙の隅ギリギリのところをナミの指は挟んでいた。
目の前ではためく紙をうんざりした表情で見つめたその時、背後から男の低い声が響いた。
「誰かいんのか?」
振り向けば、片手に灯りを下げた男のシルエットが浮かんでいた。
「・・・ゾロ」
近づいてきたゾロは訝しげな顔で、ナミの背後に立つと、手にした灯りを持ち上げた。
ナミの手にある紙が灯りに照らし出されれば、そこには、箇条書きの文言が書き込まれているのが分かった。
「何だ?」
「契約書」
ゾロの問いに、ナミは苦い笑みを作った。
「昔々に交わしたヤツ。村の売買の」
その言葉にゾロは眉間に皺を寄せた。
「すんごい気をつけて作ったのよ」
場違いなほどにナミの声が明るい。
「どっこにも穴がないように、どんなイチャモンつけられてもひっくり返されないようにね」
そこまで言ってナミは小さく息を吐き、苦笑を浮かべた。
「流石に海軍とつるむな、なんて一文が必要だなんて考えもしなかったけど」
灯りを少し持ち上げれば、細かな文字でびっしりと埋まった用紙の、一番下に幼い字でナミの名と、そしてその横に小さな指の跡が見て取れる。
ただの黒い指跡、それが何か分かった瞬間、ゾロの眉間の皺が深くなる。
幼い子供の血で押された印。
人の生き方に同情をすることなど、その人そのものを侮辱することと同じだと考えるゾロでさえ、胸が軋むように痛んだ。
「村を買い取ったら鼻でもかんで投げつけてやろうと思ってたんだけどね」
ナミは息だけで弱く笑う。
「まァ、それは出来なかったから、今捨てちゃおうって思って」
紙を握るナミの手が小さく震えた。
「・・・・思ってたんだけど」
暫くして、何でだろう、とナミがポツリと呟いた。
「いつだって捨てたい、と思ってたはずなのに、いざとなると何か踏ん切りがつかなくて。何だろう、自分が急に空っぽになっちゃうような感じがして怖くなった」
そうか、と低く応じ、ゾロは手にした灯りを足元に置いた。
ナミの言うその気持ちは、ゾロにも分かるような気がした。
必死で求めていたものが、あまりにも呆気なく消えてしまった時のあの心もとなさ。
黒髪の少女の影がゾロの心を不意に横切る。
「アンタに頼んじゃおうかな」
冗談めかした口調でナミが振り返ろうとするのに先んじて、ゾロが背後から手を伸ばした。契約書を持つナミの右手に自分の手を重ねる。
「ゾロ?」
ゾロは無言でナミの左手を掴み、契約書を持たせると、一気にそれを引き裂いた。
一瞬の出来事が、ナミの目にはスローモーションのように映った。目の前には、二枚に引き裂かれた紙と、それを持つ己の手、そこに重ねられたゾロの大きな手がある。ゾロの手がゆっくりと動き、固まってしまったかのようなナミの手をそっと剥がした。
霧雨に濡れた紙は、あっけなく波間へと飲まれていく。
張り詰めていた気持ちが切れたかのようによろめいたナミを、ゾロは背後からしっかりと支えた。
「終わったからこそ先に進めることもあんだろ」
そうね、とナミは呟く。
「アンタにもあった? そんなこと」
「さァな」
素っ気無い返事に、ナミはゾロの背中にもたれたまま、小さく笑った。
「私、アンタに会えてよかった」
「だったら今から、もっと"よかった"って実感させてやろうか?」
低く笑いながらゾロは、ナミの身体に回した腕の力を強くする。
「バカ」
もがくようにナミは身じろぎするが、その身体は全く動かない。
やがて、大分短くなっていたろうそくの灯りが消え、二つ重なる影を闇の中に溶かした。
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