+裏書庫+
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冷焔 |
Date: 2003-09-26 (Fri) |
-1-
幸せだった頃の想い出は赤の記憶。
養い親は火のような人だった。
明るくて、眩しくて、時には熱き炎。
そして、時には何より温かな灯火。
闇を照らす炎。
いつだって私達の家は明るかった。
灯りの生み出す影すら気にならない程に。
闇の暗さなんて、気にならない程に。
炎が大きければ大きいほど、それが消えた時の闇は深く、尚冷たい。
そして、私はいまだに闇の中にいる。
凍りついた心を溶かすこともできずに。
あの瞬間。
いまだ耳に響く銃声を。
この耳を引き千切ってでも消すことができたらどんなに楽だろう。
あの瞬間。
いまだ目に焼きついて離れない血の赤を。
この目を抉り取ってでも洗い流せればどんなに楽だろう。
分かっている。
そんなことはできやしない。
死者は復活を許されず、生者は忘却を赦されない。
ただ前へ、生きていかねばならない。
心臓を切り刻まれたかのようなあの衝撃を抱えたまま。
あと少し、走らなければならないのだから―
それでも、私の中の何かは死んだ。恐らくあの時、あの人と一緒に。
欠けることなく幸せだった女の子は消えたのだ―
優しい温もりと共に―
闇を照らし、心を温めてくれる炎は今は"記憶"という箱の中。
そして、私はいつも蓋に手をかけ躊躇う。
開けることは容易いその蓋を、閉じることができなくなる事が恐ろしい。
常に私を優しく誘う、温かなそちら側へ行くことはまだ出来ない。
だから開けることなく箱をしまう。
たとえこの身が、この心が凍えたままだとしても。
そんな私でも、ここ暫くは楽しかった。
妙な同行者達の所為で可笑しくて、楽しくて笑ってばかりいたような気がする。
まるで、昔みたいに。
昔に戻ったような、そんな夢を見ているようだった。
だから気づかなかった、もしかしたら気づかないふりをしていたのかも知れない。
夢は覚めるものだということに―
カサリ
散らばった何枚もの紙。
何故その一枚が私の足元に届いたのか。
神なんていやしないのに、こんな時だけはその存在を感じる。
神なる者の悪意を。
仇であり同胞でもあるその顔を握り潰しながら、これは戒めだと、そう思った。
夢から覚めよと、本性を見せろとそんな嘲い声が聞こえた気がした。
―寒い―
もう戻らなければ・・・・・・これ以上ここにいることは出来ない。
温かなこの場所には。
―寒くて―
憎まれる覚悟を。早く決断を。
戻れなくなる、その前に。
―寒くて仕方がない―
だから抱かれに行った。
馴れ馴れしく声をかけてきた男に。
一夜の温もりと共にこの場から消えようと。
彼を選んだことに理由などない。
同じ船の男を誘うことが出来なかっただけだ。
―もし、あいつ等にまた会えたら―
虚しく、詮なき思いが、まだ私の中にある。
だから、彼だった。
もう二度と会うこともない海の料理人。
そんなものは只の自己満足で偽善に過ぎない、けれど、だからこそ、二度と会うことがないからこそ―
それでも、彼が私にもたらした熱は予想以上に心地良く。
皮肉なことに私の決意を鈍らせることとなった。
―つまらない未練―
昨夜と同じ頃、私は船を抜け出した。
これで終わりにするべく。
この身に纏わりつく全ての柵(しがらみ) を焼き切るべく。
―扉は今日も開いているのだろうか―
昨夜と同じく月のない夜。
それはいつも私の味方で、慣れ親しんだ闇の中を私は目指す場所へと進んだ。
力を入れるまでもなく、扉は開く。
昨夜と同じ部屋。同じ煙の香り。同じ男。
頼りなげに揺れるランプの炎。今の私にはそれすらも眩しい。
出窓に腰をかけたまま、彼は動かない。
―何を考えているのだろう。呆れているのだろうか、それとも―
考えかけて止めた。思い悩む為にここに来たのではない。
思いきる為に、ただその為に。だから過去を、あの人を思い出させる灯火は―
―灯りは邪魔なだけだ―
歩きだした私に彼が制止の言葉をかける。
私の足元には夥しい数の蟲の死骸。
焼け焦げた只の抜殻達。
此岸の寒さに耐えきれなかったんだろうか。
―まるで私のようだ―
構わずに灯りを吹き消しながら、心中で嘲った。
一時の熱と引き換えに彼岸へと旅だった者達へ、僅かに羨望の眼差しを向けて。
残されたのは闇中に浮く一点の灯り。
それも今の私には不要なものだ。ましてや煙草の香りなど。
私は靴の底で灯りを踏み潰す。
そしてやっと安堵する。この闇の深さに。
目の前の男が僅かに息を飲む。
それから発せられた言葉を私は途中で遮る。
自らの唇で以って、私の名を呼ぶ彼の口を封じる。
名前なんて呼ばないで。名前なんて憶えないで。
私は自分の為だけにあんたを利用するんだから。
―あんたの望むことなんて分からない―
私はゆっくりと彼の首に腕を廻す。
―あんたの欲しい言葉なんて持ってない―
ゆっくりとシャツのボタンを外し、顕れた男の肌を指でなぞり口づける。
―あぁ、あったかい―
指先から、唇から伝わる熱と鼓動。
今宵限り、本当にこの一夜限りだからと繰り返しながら。
私はその温みに縋り、溺れた。
-2-
灯り一つない闇の中、悴(かじか)んだ私の指は忙しなく男の背の上を動く。
一度温もりを憶えた指は更なる熱を求めて、何度でも肌を行き来する。
細身に見えて意外に広い肩幅と、時に驚く程の強さで私を抱きしめる両の腕。
きっと均整のとれた綺麗な身体をしているのだろう。
日の元で見ることなどもうない、もう二度と感じることのない男の身体。
そんなことを考えながら、もう一方の指で胸の突起を軽く撫ぜる。
瞬間、男の身体は小さく反応する。
指に伝わる鼓動が跳ねあがる。
その身に熱がこもる。私が望む通りに。
私は、指をずらすと僅かに固さを増した頂きに唇をのせる。
ピクリと逃げる身体を追うように、舌を伸ばし、その先端を舐める。
「っ、う....」
微かな呻きと額を掠める吐息。
―もっと、私を温めてくれるその熱い風をもっと―
舌先で彼の胸を嬲りながら、欲深な私の指を熱源へと下ろしていく。
肉塊に触れた指先をゆっくりと動かす。
なぞる度に大きく、硬度を増す彼の中心。
掌で包み込めば、布越しにでも十分に伝わってくる熱さ。
その熱に愛おしさささえ憶えてしまいそうになる。
そんな思いを戒めるかのように彼が動く。
腕を掴まれ、身を引き起こされる。
彼の指が服の裾にかかる。
無意識に、本当に意識の外で身が竦んでしまう一瞬。
本音を言えば、服など脱ぎたくはないのだ。
誰にも見られたくない、触れられたくない、気づかれたくない。
私に刻みつけられている裏切りの刻印を。
だから、この身を外気にさらすのは闇の中だけで。
それでも、躊躇いを感じない時はない。
―そんなコト、気づく人はいないんだろうけど―
闇を頼みに身体を解き放ちながら私はそんなことを思った。
思いのほか強い力で、彼の眼前に引き寄せられる。
肌に触れる彼の息遣いと熱い視線。
―早く―
自分の身体の最奥に熱が湧いたのが分かる。
近づいてくる彼の顔。
胸に感じる温度が高まり、彼の唇が開いたことを伝えてくる。
―早く、触って―
そんな浅ましい我が身の願いは、次の瞬間叶った。
ぬるり、と胸の先に温かく濡れた感触。
柔らかく、そしてゆっくりと彼の舌が先端へと動いていくのが分かる。
―焦らされてる―
手に入りそうでいて、掴めない快楽を欲してどうしようもなく身体が疼く。
知らずに零れるのは、焦れた溜息。
びくり
待望のその時に、私の身体は予想以上に大きく反応した。
彼の唇が胸の先端を噛み締める。
甘い痛みが身体の芯を刺激したかと思うと、今度は濡れた舌先が細かく震えるように其処を舐め回す。
どうしようもなく声が漏れてしまうのを、私は抑えることができない。
優しく、そして執拗に彼の舌は胸の上を徘徊する。
軽く音をたてて肌を吸うのは、きっとわざとだ。
その音で女が益々昂ぶるのを知ってのことだろう。
そして、私もその例外ではないのだろう。
―やっぱり上手い、この人―
手馴れた、そして巧みな愛撫に身体のバランスを崩しそうになりながら、私は悶えた。
厭くことなく続けられた胸への愛撫。
執拗な程の愛撫に痺れているのは、何も胸だけではない。
と、彼は私の胸から唇を離しゆっくりと私の後ろに立つ。
出窓の縁にて、いまだ冷えている私の手が熱い彼の手と重なる。
彼の熱が私の手を溶かしていくようで何とも心地よい。
その内に、彼の片手が私の髪を撫ぜる。
優しく髪を梳かれる気持ちよさに揺蕩っていると、いつの間にか項に口づけられている。
身体の奥から熱が広がっていく予感に思わず震える。
と一瞬、彼の指が私の肩を掠める。
―気づかれた!?―
反射的に私は彼の手首を抑える。
一瞬にして熱が引く、もしかしたら私は青ざめてすらいたのかも知れない。
私は一度大きく息を吸う。
落ち付け。
取り乱す必要なんてない。見えてなどいないのだから。
例え今彼が何かに気づいたとしても。
海賊の証など料理人には無関係なものだ。
よしんばこの先、この刺青の意味を知る時が来るとしても、だ。
知れば尚更遠ざかるに決まっている。
ましてや、今夜を限りにもう二度と会うことなどないのだから。
そうして私は自分を納得させた。
もう二度と会うことがないから―そう考えた時に感じた胸の痛みには気づかない振りをして。
ゆっくりと息を吐き出しながら、私は掴んだままだった彼の手を胸の上に。
軽く乳房を揉まれ、身を捩りながらもそのまま下へ。
自らの秘所へと男の手を誘う。
―全部忘れて―
そんな願いと共に、彼の中指を握り締める。
―今だけは全部忘れさせて―
そして、私は体内に彼の指を導き入れた。
彼の指を通して熱が漏れ出していく。
長い指が突き入れられる度に下腹が熱くなる。
長い指が中を掻き回す度に湧き立つ水音が私を狂わせる。
無意識の内に揺れる腰の動きに気づいたのだろうか。
背後で彼が自身を取り出す気配がした。
その直後、何の前触れもなく私は彼に貫かれた。
―熱い―
余りにも甘美なその熱に。
声を殺すことも、身体の震えを止める事も私にはできなかった。
「っく、うぅっ...」
首筋に彼の荒い息がかかる。
腰が持ち上がってしまいそうな程激しく私を揺すりながら、彼の息遣いは益々激しく私を熱する。
繋がった部分から広がる、いっそ苦しい程の快感。
逃げたくなどないのに、いくらでもこの身に快楽を与えて欲しいのに、思わず前にのめる身体。
それを彼が押さえつけ、引き寄せる。
腰にかけられていた彼の手が前方へと伸ばされる。
彼の指が、最も敏感な部分を探して秘所の中を蠢く。
激しい腰の動きがその手助けをする。
びくり
彼の指が私の芯に触れる。
その時、自分の中が締まったのが、そして彼自身ををきつく締めつけたことがはっきりと分かった。
凍えていた筈の身体が火照る。
腰が打ちつけられる度に、そして敏感な芯が彼の指に擦りつけられる度に。
その熱と共に身体の奥から何かが生まれようとしている。
絶頂を求める身体と、この快楽を手放しがたく思う心と。
それでも―
「っは、あ...くっ...」
彼の熱く、切ない息遣いが私を頂点へと押し上げた。
―終わった―
私は暗闇の中で身を整え思った。
全ては自分の望んだ通りだ。何も言わせず、何も聞かせず、ただ抱き合う。
この身に熱を蓄える為に。
―あとは消えるだけだ―
それも始めから分かっていたことだ。
それなのに―
全く予期せぬことが起こった。
涙が。
涙が溢れて止まらない。
私は急いでその場を後にした。
逃げ出すこと。そうする以外に今の私にできることはなかった。
彼の部屋を出、駆け足で外へと抜ける。
月もなく、ただ闇に染まる空を見上げる。
―泣くな―
何で、何で涙なんて。
感情を律すること、思いを殺すことには自信があるのに。それでも涙は止まらなかった。
熱くなった躰を醒ますかのように。
―彼を選んだことには理由なんかない―
寒かったから、只それだけ。
これまでだって何度もやってきたことだ。
―惹かれた訳じゃない―
そう考えて愕然とする。
こんな言訳を自分にするのは初めてだった。
―惹かれてなんかいない―
言訳をすればするほど、深く刻み込まれゆく想い。
何度言い聞かせても、涙は止まらなかった―
カタン
頭上の彼の部屋から小さな音がし、私は慌てて身を隠す。
そして、次の瞬間。
窓から投げ捨てられた吸殻。先端に灯ったままの火。
その赤い光が線を描き、闇夜に走る。
光が海へと吸い込まれる直前、私は確かに見たのだ。
一匹の虫が共に消えるのを。
―彼に抱かれながら消えることが出来るなら―
過去も未来も案ずることなく、跡形もなく。
快楽の至境、その中で息絶えることが出来たなら。
それは幸せなのかも知れない。
けれども私は、あの虫になる訳にはいかない。
誰にも縋るまいとあの時決めたから。
この熱を糧として一人進まねばならないから。
その熱もきっとすぐに費えてしまうのだろうが。
それ程に凍えきった、私の心と身体。
この身に宿るは冷えた心。
冥き復讐だけに燃える―
何一つ、自身では身一つ暖めることの出来ない氷の焔。
―あぁ、そうか・・・
彼の熱で溶かされて、流れていったのがさっきの涙だ―
詩的に過ぎるきらいはあるが、その表現は言い得て妙な感じがした。
形をなくした氷の心。
ならば、やはり消えるしかないのだろう。この身と共に。
そう思って私は嘲った。
低く乾いたその嘲いは思いのほか大きく響いた。
抱いてはならぬ感情。
その全てを押し流した後の、空虚なこの心の中に。
終
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