+裏書庫+


  invisible man (上) Date: 2007-06-20 
勤勉かつ探究心旺盛な医者のいる船では、その辺に置いてあるものを気軽に口にしてはいけない。
例えそれがどんなによく見知った飲み物に似ていたとしても。




トレーニングの後、裸のままの上半身にふき出る汗を拭いながら部屋に戻ったゾロの目に止まったのは、デスクの上に置いてあったガラスの容器だった。
取っ手さえついていたらビアジョッキに見える容器の中には、黄金色の液体が細かな泡をたてている。
見たところビールである。と言よりも、ビール以外の何物にも見えなかった。

置かれてから時間が経っているのか、容器の外側には幾つもの水滴が流れ落ちた跡があり、デスクには容器の形に沿って丸く水溜りができている。
ビールの泡は幾分へたって目減りした跡も見て取れた。
それでも、絶えず細かな泡を浮かせ続けているそれは、たっぷりと汗をかいた身には十分すぎるほど美味そうに見えた。

ゴクリと鳴った喉を玉のような汗が滴り落ちていく。
人差指でこめかみの辺りを意味もなく掻きながら、ゾロは部屋を見回す。
誰もいない。
指先についた汗を腹巻に擦りつけ、どうしたものかと考えた風を見せたのも束の間、まぁいいかとばかりに肩を竦めてから、ゾロはおもむろに容器へと手を伸ばした。

「もらうぜェ」
誰にともなく断りを入れ、一気に喉に流し込む。
ごくごくと勢いよく動いた喉は、三度目で止まった。不意に眉を顰め、ゾロは容器から口を離した。
どこで仕入れたモンだ?
やけに苦味が舌に残る。飲めないという程ではないが。
それでか―
置きっぱなしにされていた理由が読めた。
誰が持ってきたかは知らないが、美味くないのでそのまま置いておいたのだろう。
内心で舌打ちをし、ゾロはそれでも殆ど飲んでしまった容器をデスクに戻した。
味には満足しなかったが、喉は十分に満足したゾロは、ソファに近づくと傍らに刀を立てかけ、ごろりと横になった。






「ゾロ、いるかー?」
ひょいと顔を覗かせたウソップは、ソファの上に見慣れた黒のズボンを見つけて声をかけた。
「おい! メシだって・・・・・・よ・・・?」
その声は戸惑いを含んで尻すぼみに小さくなる。
よくよく見れば、薄暗がりの中、ソファの上に乗っていたのはゾロの服だけだった。
それにしても何かがおかしい。ウソップは目を細めた。
ズボンに腹巻が脱ぎ捨てられている訳でもなく、順に並べてある。
風呂にでも行ったのか?
そんな当たり前の疑問はすぐに打ち消された。ソファには刀が立てかけられている。
あのゾロが刀を置いてどこかにいくなんてころあり得るだろうか?
目の前の状況に大きな違和感を覚えながら、ウソップはゆっくりとソファに近づいていく。
その足がソファの直前でピタリと止まる。
違和感の大本にようやく気がついた。
自分の他には誰も居ない部屋。持ち主不在のズボンと腹巻。
だが、よく見れば、ぺしゃんこであるべきその服には何故か厚みがある。
ウソップはガシガシと目を擦る。どんなに目を凝らしてみても、まるでそこには目に見えぬ誰かが横たわっているようにしか見えなかった。

後ずさる足が縺れ、ウソップは盛大に尻餅をついた。
鈍く重い音が部屋に響く。ゾロの服からどうしてか目を離せないまま、ウソップはわたわたと両手で床をかいた。
そんなウソップの前で、ズボンがピクリと動いた。
恐怖に顔を引き攣らせながら目を見張るウソップの前で、腹巻がむくりと起き上がり、口をきいた(・・・・・)

「お? 朝か?」

見つめ合うウソップと腹巻。それから三秒後。

「ギャァァァァァァァァァァァァーーーーーッッッ!!!」

絶叫が船内を駆け巡った。






「ギャーーーーーーーーッハッハッハッハッハッ!!!」
絶叫の次に船内を駆け巡ったのは、爆笑だった。
「ミイラ男だ、ミイラ男っ!!」
キッチンの椅子に腰掛け、両手でバンバンとテーブルを叩きながら大笑いしているルフィは、新しい玩具を手に入れた子供のように大喜びしている。
その向こうにゾロはむっつりと黙り込んだまま座っている。
今まで散々な大怪我をしているゾロだが、こんなにも包帯まみれになったことはないだろう。全身をくまなく包帯で巻かれたゾロは、勿論表情は全く分からないが、仏頂面でいることは間違いなかった。
一言も発しないゾロの後ろでは、すっかり調子を取り戻したらしいウソップが、ルフィに向けて「ちゃうちゃう」と片手を振る。
「ミイラ男じゃなくて透明人間」

人の気も知らねェでこの野郎は―
ゾロはぐいと目の辺りの包帯を押し上げ、ルフィを睨みつけるが、包帯の中はもぬけの殻で、どんなに眼光鋭くしてみても見えないことにはなんの効果もない。

「まぁ、どっちでもいいだろ? 面白ェから」
お気楽に応じるルフィに、溜息を一つ吐き、ゾロは口元の包帯を引き下げた。

「・・・・・で? 俺はいつ元に戻れんだ? チョッパー」
振り向けば、済まなそうな表情で所在なさげにしていたトナカイがびくりと肩を震わせた。

「・・・・・・飲んだ分が体外に排出されれば、元に戻る・・・・と思う・・・多分」
おずおずと見上げてくるチョッパーの頭に、ゾロは包帯の巻かれた手のひらを乗せた。
「別に怒っちゃいねェよ。勝手に飲んだのは俺だしな。元に戻れりゃそれでいい」
みるみるうちに目に安堵の色を乗せたチョッパーをナミが嗜める。
「けど、次から危ない薬は出しっぱなしにしてちゃダメだからね。チョッパー」
それからにっこりと笑って周囲を見回す。
「食い意地はってるヤツばっかなんだから」
うん、と神妙な顔で頷いたチョッパーは、けど、と不思議そうに首を傾げた。
「作ってたのはただの強壮剤のはずだったんだけどなァ」
透明になってしまったゾロの目をチョッパーは見つめる。
「分量間違えちゃって、後で捨てようと思って置いておいたんだ。まさか、あんな色の中身飲んじゃうヤツがいるとは思わなくて・・・」
あんな色?
「俺は、てっきりビールだと思って飲んだんだぞ?」
「ビール? 俺が部屋を出た時は・・・・そうだな・・・・」
そう言って、チョッパーは何か上手い例えを探して辺りを見回す。その視線がゾロの頭で止まった。
「ゾロの髪の毛みたいな色だった!!」
「ブハッ!!!」
それまで壁にもたれて、ニヤニヤしながら成り行きを見守っていたサンジが、そこで盛大に噴いた。
「そいつァ、マリモの呪いだ。マリモの。共食いの報いだな」
「あんだとォ!?」
気色ばむゾロを見て、サンジはせせら笑う。
「いいじゃねェか。元に戻らねェでも。そのツラの方が、万倍も愛嬌あるぜェ?」
「だったら、テメェも包帯まみれにしてやるか?」
「やれるモンならやってみやがれ!」
「まぁまぁ、待て待て」
腰を浮かせかけたゾロの肩に手を回し、ウソップがその場を収めにかかる。
「けどよォ、考えようによっちゃ凄い薬じゃねェか? これ」
ウソップは、殊更楽しげに言葉を続ける。
「どこにだって忍びこみ放題だぜ?・・・・・だろ? チョッパー」
「そうかも知れない・・・けど」
「どうしたの? 船医さん?」
振り向いてロビンを見上げ、チョッパーは言いづらそうに口を開いた。
「・・・・・配合、間違ってできたヤツだから・・・・同じのは二度と作れないんだ」
そう言って、チョッパーはチラリとナミを見た。
「何だよー。俺も飲んでみたかったのになー」
心底残念そうなルフィに、ナミは溜息混じりで声をかける。
「アンタなんかに飲ましたら、何やらかすか考えただけで怖いわ」
そう言ってから、ナミはゾロに向き直る。
「アンタも! 元に戻るまでその包帯とったら承知しないからね!!」
「へいへい」
ナミに釘を刺されたゾロは、やる気なさげな返事で肩を竦める。その顔にうっすらと浮かんだ人の悪い笑みを目にした者は、当然いなかった。




大騒ぎの夜は更け―――
湯気のこもるバスルームに、シャワーの音が響く。

バスタブに張った湯からすらりとした足が覗く。視線を上向ければ、形のよい尻と細い腰。両腕が動く度に豊かな胸が揺れる。身に纏う泡も艶かしく、バスタブの中に立つナミが髪を洗っている。
オレンジの髪を包んでいた泡を、シャワーで一気に洗い流す。
身体についた泡も滑り落ち、見事なプロポーションが顕わになっていく。

カタン。
シャワーの音に混じって、微かな音が聞こえたような気がしたのはその時だった。
背後で空気が揺れた気がして、ナミは振り向く。
だが、そこには何の変化もなかった。

気の所為か。
目に泡が入りそうになり、ナミは慌てて目を瞑り、前を向く。

振り向いたのはほんの一瞬。
だから、床に人の足型がついていることに気が付かなかったのも無理からぬことだった。

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